彼は、次第に祖父の思い出話とロンドンでの会談に話を向けました。
私には、この、小さな太った体つきの、権力の塊(かたまり)のような男が、ガチャガチャと音のするエレベータに乗って、祖父の薄暗い、ガランとしたアパートの部屋を訪ねた、などということは、思いも及ばないことでした。
彼には、どんな食べ物が出されたのでしょうか。祖父のところでは、ハムを薄く切ったものとレタスの葉が日常の食べ物でした。
「彼(※トインビー博士)はじつに偉大な方でした。」
池田氏は、私の方へ身を乗り出したままの姿勢でそう言い、私をジッと見ました。
「世界でもっとも偉大な学者です」とも言いました。
私は、こうしたコメントが、どこか、よその家族に関する見当違いの話ではないか、との考えが頭をよぎりましたが、すぐに心の奥にたたみ込みました。
「私の使命は、彼の作品を全世界の人に読んでもらうようにすることです。そのために、あなたも協力してくれるでしょうね」と言われ、私は「ノー」とは言えませんでした。
「約束しますね? 約束してくれますね?」と言われ、彼が私に何を期待しているのか、不安に思いました。
「そこで突然、彼は“トインビー・池田会談で、まだ出版されていない部分があり、近いうちに出版にこぎつけられる”という事を明かしました。
この旅行の目的の一部が、ここで明らかになった訳です。
その後、私はそれ以上のことを知りましたが……。
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また、食事が進む中で、気まずい思いをする瞬間がありました。
彼は私達に、「トインビー博士は別れ際に、私にどんな戒めの言葉を与えてくれたとおもいますか?」と質問してきました。
考え抜いたあげく、夫が少しヤケ気味に
「貪欲(どんよく)であってはならない、ということでしょう」と答えてしまいました。
すると
池田氏の大きな顔は、氷のように冷たい表情に一変したのです。あたかも武士達でも召集して、私達を外へ引っ張り出すのではないか、とすら思えました。
私は慌(あわ)てて、夫のピーターが言おうとしたのは、例の対談でも、しばしば触れている“人間を支配する利己主義のことについて”のことだ、と説明しました。
彼は完全に気を落ちつかせてはいない様子でしたが、その場はそれで過ぎました。
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夕食後、私達は、大きなアームチェアーの部屋に戻りました。そして、あり余るプレゼント(※ミリーには、大きな人形と計算機。私達には、真珠、トインビー・池田会談の記念アルバム、トインビー・池田会談のサイン入り本など)を贈られました。
やっと神経のひどく疲れる夜が終わりましたが、私達の頬(ほほ)は、ヒビが入ったような感じに引きつっており、心は、わずかばかりの会話や冗談をしていただけなのに、すっかり疲れ果ててしまいました。
私達は、白いドレスでおじぎをして見送る女性達の群れと、カメラの前をすぎて、リムジンへと逃げ込むように乗りました。
翌日、創価学会の全国紙『聖教新聞』の第1面に、夕食時の私達の写真と対談の模様が載っていました。
記録(録音)されているなどとは、誰も教えてくれませんでした(もっとも、載っているのは主に池田氏の言葉を伝えたもので、私達は、池田氏の支持者のような形で出ているだけだったの、で大したことではありませんでしたが)。
私達は、さらなる褒め言葉や宴会と、地方の創価学会組織の歓迎を受けるために、京都と広島へ向けて出発しました。
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広島はあまり楽しい所ではありませんでした。そこは、戦後の平和を願う聖地でした。
「広島についてどう思いますか。広島について何か言うことはありませんか」と私達は続けて尋ねられました。しかし、展示物を見てショックでしたし、唖然として言葉も出ませんでした。
ここには、平和と核の悲劇が二度と起こらないようにとの、祈りを込めた国立の殿堂があり、青く晴れた空に原爆が落とされた、あの日のことや、世界が日本に対して何をしたか、という話などを聞かされます。しかし、そこでは、日本が戦時中にしたかもしれないことについては、一言も、その気配すら語られません。
戦時中、広島には主要な軍事基地が一つ存在しており、そこから、ビルマ、シンガポール、中国、韓国を侵略すべく、軍隊が送り出されていました。これらの国々では、いまだに、日本のイメージと平和を結びつけることは難しいでしょう。
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ある晩、私達は、池田氏がダラスからサンディエゴまでを巡回旅行した際の各地のスタジアムで開かれた第会合の映画を見せられました。
鼓笛隊とバトンガールのメンバーと何千人もの人が“SOKA”と“PEACE”の人文字を描き、群衆が金切り声にも似た歓声を上げる中、
スポットライトに照らし出された池田氏は、相も変わらぬ「平和」についての演説をしました。いつも「平和」です。
人々の心の中に平和を、世界の国々へ平和を、人間同士に友情を等々――、これが創価学会のいつも言っていることです。
レーガン大統領(※強いアメリカへの回帰を主張した、好戦的イメージの濃い、合衆国第40代大統領)からの、創価学会および池田氏に対する賛辞と、歓迎の意を述べたメッセージが読み上げられると、スタジアム全体はシーンとなりました。
その演出効果は抜群で、スタジアムは突然、熱狂的な拍手に包まれました。
創価学会は、頻繁(ひんぱん)に広島の悲惨さを訴える展示会を開きながら、世界中を廻って平和を説いていますが、これは新会員を集める手段として、大いに利用されているようです。
私達が、「平和を説いて廻りながら、レーガン大統領からの学会支援メッセージを受け入れるのですか。いったい、学会は何を考えているのですか」と尋ねると、口数の少ない池田氏の男性秘書は「レーガン大統領に投票することと、創価学会のメンバーであることは、別に矛盾しているとは思わない」と答えました。また、イギリス創価学会の代表者は、すぐに次のように付け加えました。「どんな人でも自らを改革していけるのです。レーガン大統領が私達にメッセージを送ったときに、彼もまた命の中を変えることができるということを示した、ということです」と。

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