仕事がどうにも苦手な理由を、自分なりに考えてみた。
お金を稼ぐこと。自信を取り戻し、誇りを感じられること。
人間が生きてゆく上において、重要かつ必須であるこの二つの要素。それが体得できない今の状況では、文字通り死んでしまいそうになるから…鈍い頭を働かせて必死で考えた。
まずは、仕事というものの定義から始めなければなるまい。そもそも仕事とは基本的に、家から出て外へ働きに行き、職場と呼ばれる場所で一定の時間を拘束されて労働力を提供することである。
僕のようにパニック障害の傾向がある人間は皆、日常の些細な出来事からえもいわれぬ不安を感じとり、まるでさざ波のように押し寄せるそれに押しつぶされそうになって、「暴れる」あるいは「バックれる」といった行動に出て、その状況から逃避しようとする。
我々の日常は、拘束に満ちている。
例えば美容院に行き、髪を切るとする。その場合、髪を単に切るだけではなく、場合によっては髪を染めたり、パーマをかけたり、シャンプーをしたりといった形で、ある一定時間、自分以外の他者の管理下に置かれることになる。
パニック障害は、PTSDなどの特殊な例をのぞき、特定の実際にあった出来事(トラウマ)のフラッシュバックによる発作ではなく、実際にはまだ起こっていない出来事に対する不安発作である。そしてそれは大抵の場合、先ほども説明したように“さざ波のように押し寄せては”時間の経過とともに自然に引いてゆき、自身の脳内で完結する類のものだ。
そういう意味では「障害」という呼び方は大袈裟な呼び方であるとも言える。障害よりはむしろ“disorder=変調”と訳すのが、実態により近いかもしれない。
パニック障害を持つ者のみならず、我々人間の暮らしというものは、「根源的不安」に満ち溢れている。
全てが自分の意のままになれば、とてつもなく暮らしやすいのは言うまでもないが、実際には「否応なしに巻き込まれて流されてしまい、どうしようもない」といった状況がほとんどである。
意のままに生きることが不可能だということは、皆、頭では理解できているのだ。しかし、頭で考えるだけでは納得できないというのは、恐らくは魂のレベルで人は、「自由に生きたい!」と叫んでいるのだろう。
ハイデガーが『存在と時間』の中で語った「死」というもの。それは、リアルな意味での「死」そのものではなくて、「他者に管理され支配下に置かれることにより、自分が自分でなくなること」。その意味なのではないだろうか?
人間が根源的に抱える不安とは、「自分が自分でなくなること」。それをまさに「死」と呼ぶのではないだろうか?
社会というものは、主導権の奪い合い、力と力のパワーゲームだ。
だから、いったん外へ一歩出て社会のヒエラルキーの中に身を置くと、文字通り否応なしにそれに巻き込まれて、神経をすり減らすことになる。
僕たちのように何らかの精神障害を持つ者は、それを感じるセンサーが、人並み外れて過敏なのだ。それでは生きてはいけないから、いわゆる普通の人々は、それを無視したり、気づかないフリをして、日常生活に埋没してゆく。
埋没できることは、言い方をかえれば楽に生きられることであり、人が生きてゆくための手段でもある。
どうしても埋没できない人間は、この世界にとてつもない生きづらさを感じ、日々を苦しみながら生活することになる。
以前このブログを「素晴らしい!」だの「非のうちどころがない!」だのと、こちらが恥ずかしくなるほど絶賛したある人が、きわめて友好的な交流から一転して態度を変え、僕が書く記事を「上から目線」と罵倒して批判的立場に寝返った。
彼などはきっと、潜在意識下にどうしようもないほど肥大化した尊大な自意識を隠していて、僕がここで語ることの管理下に置かれ支配されることに恐怖と不安を感じてしまい、自分の身を守るために手のひらを返したのだろう。彼がその後、自身のブログで僕のことを猛批判した記事などを拝見すれば、明らかにパニックを起こしていることが伺えたから。
僕はこれまで、彼の話をたびたび記事に挿入してきた。
それは、ブログを続けていろいろ体験してきた中でも、それが最も衝撃的かつ示唆的な出来事だったからで、「根に持つ」などという簡単な問題ではない。
僕には、どうしてもわからないのだ。
何かのトラブルがあったからと言って、それまで「尊敬する」「応援する」と言っていた誰かを突然全否定し、過去にまで遡って「元々あんな人なんか、僕にとって大きな影響のある人間ではないですから!」などと言い始めて、思い出まで台無しにするようなそんな生き方が、どうしても理解できないし、納得がゆかないのだ。そういうことをする人の本質を見抜くことができず、盲目的に信用してしまった自分の愚かさも、悲しい。
人を褒め称えるということは、その相手を自分よりも「上」の存在とみなし、尊敬しているということである。そして手のひらを返して、同じ相手を罵倒するということは、その同じ相手を今度は「下」に見て、馬鹿にするということだ。
こんな風に自分の都合で相手を上に見たり下に見たりする感性。人をとことん上か下かでしか見れない生き方というものが、どうにもわからない。
そして、そういう人に共感し、庇い励まし支持する者がいることに「いろいろな人間がいて、いろいろな考え方がある」という通りいっぺんな理解では到底理解できない人間の深い闇を感じ、この社会の生きにくさを改めて感じずにはいられないのだ。
仲直りしようと近づいても、受け入れてはもらえなかった。「あなたを必要とする人たちと、仲良くしてください!僕には必要じゃないので(笑)。」などと言われた。これまでいろいろなことを体験してきた僕だが、あんな不愉快で悲しい思いは初めてだった。
彼は、「彼の中の僕」を殺した。生きるために。自分を正当化するために。
彼のこれまでの人生…その道程には、僕のように殺された人間の死体が、いったい幾つ積み上がっているのだろうか?
死体の山に囲まれて、今日も笑顔で仕事に励む彼は、いい人なのだろうか?僕には…それがわからない。
皆、良くも悪くも、自分が生きることに必死なんだな…。
僕は、弱い人間だと自覚している。だがそうやって、誰かを貶めてまで自分を守らなければならないほど、弱くはないつもりだ。
しかし逆に言えば、他人を殺してまで生き延びるほどのがむしゃらさは、僕にはない。だから、それを「強さ」だと感じるような人々には、僕はとてつもなく「弱い」人間に見えることだろう。
だから、弱肉強食の社会では通用しないのだろうな…。社会に出て違和感なく生きてゆける人というのは、好むと好まざるとに関わらず、人を上下で見る価値観を受け入れている人たちなのだろう。
そんな中、僕のような人間がこれからも生きてゆくためには、何かそれとは違う別の価値観を作り出し、社会の外からシュートする以外に方法はないかもしれない。それが、幾ばくかのお金を稼ぐことに繋がってゆくのが理想だが、なかなか現実は厳しいのも、わかっている。
この世界はまるで、人がひしめき合う満員電車のようだ。
右から左から、
前から後ろから、
僕たちは今日も、否応なしに巻き込まれては、流される。
外へ出ることを拒否して引きこもりを決め込んだところで、今度は狭い部屋という閉塞した空間に押し込まれ、否応なしに巻き込まれている自分を嫌と言うほど実感し、またさざ波のような不安が押し寄せる。
逃げる場所などないから…どこにいたって結局、もがくしかないのだ。
もがいてもがいて、明日は少しでもマシな自分になれるように…
明日は少しでも、生きやすい場所を確保できるように…
まずは、生きるしかない。

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