みなさんは!生駒を歌った曲はご存知でしょうか??「女町エレジー」!!吉野さくらさん??が最初だったと聞いた事がありますが・・・中村美津子さんや三笠優子さん・・・藤圭子さんまで歌ってたそうです・・・!!「女町エレジー」宝山寺の芸子さんをテーマにした曲です!憂歌団もイコマとして歌っておりました!!生駒は悲しい女町・・・。かつては宝山寺の門前町として栄えた生駒。日本最古のケーブルカーが宝山寺・生駒山上まで続いています。宝山寺の花町。一時は200人もの芸妓がいたと聞きます。私が知る昔の生駒・・・駅前の飲み屋街にも浴衣を着た観光客を多く見たものです。さすがに日本髪の芸子さんは見ませんでしたが(苦笑)一時は生駒の生産の2/3を支えたとされる宝山寺・・・。生駒の歴史ですね!!風情ある旅館街は今でも石段の両サイドに風情ある姿を残しています。
また生駒新地流しなる曲もあったと聞きます。
大正の終わりから昭和の初めにかけては小唄、民謡が多くつくられてます。その中に野口雨情の作品である生駒新地流しがあります。野口雨情って聞いたことありますが??童謡作家らしいです。雨情は日本各地を旅行し地元の民謡の作品、百数作品を残し、その中にこの生駒新地流しがあるそうです。雨情もこの宝山寺を訪れたに違いありません。また探してみます!
宝山寺のお膝元、日本旅館が立ち並び、この一帯が宝山寺新地と現在では呼ばれていました。宝山寺新地の歴史は生駒新地と呼ばれていた時代にまでさかのぼります。大正三年。西暦でいうと1914年。第一次世界大戦の始まった年だそうです。以前に書きました大軌鉄道!現在の近畿日本鉄道が大阪・奈良間に開通しました。生駒停留所が設けられたことからはじまるとか??生駒停留所から宝山寺まで約1,4キロの参道が新たに開設されたそうです。料理屋や旅館が軒を並べることになり、芸妓も出入りするようになったとされています。置屋さんが誕生したのは大正4年末のことです。大正7年には日本初のケーブルカーが開通。最初に誕生した置屋の名前は巴席というそうです。第一次大戦後の好景気に支えられて大正7年頃には浜繁席という二軒目の置屋も誕生・・・・。やがて都席、千歳席、浪花席など増加。大正10年の町制施行の頃になると置屋が15軒となり芸妓が約130名という規模になったとされています。検番は既に大正8年頃にできていたそうです。大阪に拠点を置く大坂党と呼ばれていた面々によって創設されたそうですが・・・・??しかし生駒出身の生駒党と呼ばれる料理屋側と対立するようになり、生駒党も検番を発足させるなど揉め事が続いたそうです。大正10年になって、置屋側と料理屋側が共同で検番を株式会社として発足させました。ん〜すごい歴史。書いていて興奮します(苦笑)芸妓数は昭和5年になると162人を数えたとの記録。昭和18年になると戦争のため置屋、検番は解散させられたそうです。生駒にも深く影を落とす戦争・・・料理屋さんは旅館として営業を続けたそうです。それでも昭和17年の芸妓数は146人。戦後は昭和23年に芸妓あっせん所が開設、翌年には芸妓置屋組合が発足。昭和40年代後半からキャバレーやアルサロに押され気味となり、芸妓が華々しく歩く花街としての生駒新地は次第に下火に(;一_一)華やかなりし頃の生駒の歴史でした・・・!!すごい・・・。
https://youtu.be/Y_5h4xh2rik
