http://s01.megalodon.jp/2008-0117-0938-01/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080116-00000417-yom-soci
13年前の今日の日を覚えていらっしゃいますか。神奈川も地震でかなり揺れたというのですが、揺れは覚えていないのです。
それよりも朝、テレビをつけたときに神戸の街のいたるところに火事が起きているという映像が鮮烈でした。
職場に行くと、次から次へと犠牲者の数が増えていくテレビ報道がされていました。
神戸は修学旅行の下見に1992年の8月、初めて行きました。六甲山に登り、見る神戸の夜景は神秘的でした。
翌年の10月に萩・津和野・広島・神戸という4泊5日に修学旅行引率をしました。
そんな思い出の地が地震で崩壊していたことに心を痛めていました。
そして多くのボランティアが日本中から神戸に向かっていたのですが、土日は顧問をしていたソフトボール部の試合が入っていて、何もできませんでした。
その時は3年生を担任していましたので、2月になると自由登校になり、授業がなくなりました。
1月の下旬でしょうか、高校の教職員組合がボランティアを募集しはじめました。たまたま授業から帰ってくると、役員だったT先生に「神戸の震災ボランティアにクリさん、行かないか。」と聞かれました。
私が顧問をしていたソフトボール部は前年度は最強のチームで東日本大会にも出ていました。県内で勝てなかったのは、その年、インターハイで全国優勝したA商業だけでした。
しかし、この時のチームは弱く、県大会に出ても一回戦負けのようなチームでした。でもこの時のメンバーは根性がありました。
今だったら、私がクビになるような練習に耐えていました。
1月16日、震災が起こる前日です。A商業と公式審判をつけて、練習試合をしました。相手の投手は2枚看板の一人でしたが、4−1で勝ってしまいました。
団体競技というのは、チーム力に差があっても、1000回に1回勝てることがあります。そんな試合でした。
教え子のコーチとともにその日、夕飯を食べたとき、何か起きるぞと言った翌日に阪神淡路大震災が起きたのです。
土日は練習試合が入っていたために、私が行けるのは平日の2月14日〜18にでした。
組合員のボランティアは授業があるために、4泊5日で派遣されましたが、運良く、3次派遣がその日程だったのです。
さっそく申し込み、今は廃校になってしまった神戸三ノ宮駅近くの二宮小学校に行くことになりました。
仕事は岐阜県の高山の人達が校庭に設置してくれたお風呂の管理です。
そこで私が北海道南富良野に何十日も行けるようになった看護師のユミちゃんとの出会いがありました・・・・・。
続く
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震災の資料、写真は
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ご覧頂ければ、幸いです。
写真は3年前に10周年行事に現地調査で組合から派遣されたときに撮影したものです。


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