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「風立ちぬ」を観て

2013/9/7 | 投稿者: komori

1週間くらい前に宮崎駿監督の「風立ちぬ」を観てから、ずっとあの映画のことについて考えている。僕はラスト30分くらいずっと号泣しっ放しだったんだけれども、そのことをツイッターに書き込んだら、友人から「どこで泣くんだ?」「あの映画には苛立ちを覚えた」などの意見が返って来た。どうやら世間的な評価としても、相当な賛否両論を巻き起こしているようだ。なるほど、だがしかし色んな感想が生まれるというのは作品の多角性の現れでいいことだと思うし、酷評する人がいるのもきっとそれはそれでよいことだろう、少なくとも自分はこれまで観たどんなジブリ映画より感動出来たわけで、その事実をもってして、それを与えてくれた作品に向き合えればと思う。酷評してる人の意見とは総じて主人公やヒロインに主観を投影し、「あんな生き方は許せない、解せない」「ヒロインが可愛そう」というストーリーを追った上での解釈があるようで、なるほど、そういう見方もあるものかと、作品というものをほぼストーリーを追わず鑑賞する性分が元来ある自分にとっては逆にそういった観点は新鮮であった。なるほど、なるほど。僕はどうも「ストーリー」ってのが苦手で、いつもアングルや構図であったり、音声であったり、という部分的な見方をしちゃうんだよね。だからラブストーリーとかに、ほんと疎い。

まあ、取りあえず人様のご意見は置いておき、僕の見方はこうだ。ああ、あの宮崎駿がこんなにも夢の「ない」作品を作ったのか、という、真っ白なカタルシス。あんまり筋を話すと未見の方へのネタばらしになってしまうからそこは割愛するけれど、最終的にあの映画は、クライマックスで誰も彼もが救われなかった。ストーリーというものを構成する劇中での人物の善悪の構図というものも、最終的に加害者も被害者も表裏一体のコインのようなものとなった。そういった意味で、あの映画は戦争映画では決してなかった。戦争に対し賛成も反対も、一度たりとも謳っていない。そういったポリティカルな部分には徹底して冷めている。はたまた、逃げているようにも思えた。そのことだけは、監督が貫いた「ファンタジー」であったようにも思う。逆説的なファンタジー。主義主張のない映画。何も語っていない。内容など、ない。そのことは徹底して「叫ばない」主人公に象徴されているようにも思える。あの主人公自身が、飛行機=メカ、機械 なのだ。だから、感情はない。あるのは状況の描写のみである。怒りも、喜びも、ないのだ、あの作品には。それをして「生きねば」とは、何たる皮肉であることか、と僕には聞こえた。

上記のような、監督が達した彼岸とも言うべき境地の、その余りにも迫り来る終幕感に、たまらなく自分は涙した、のかもしれない。しかし、涙の理由など、明確に把握は出来ない。言説は常に後付だ。ただ、とてつもなく漠然とした巨大な「終わり」が僕を襲ったことだけは確かとここに記しておきたい。

映画を観た翌日だったかた、監督引退のニュースが世間を震撼させた。だが、なんとなく理解できる気もした。あの作品は、きっと、遺書だったのだ。監督は自らが作りあげてきたファンタジーの息の根を、最後に、自ら止めたのだ。

「世界がギシギシ音を立てて変化している時代に、今までと同じファンタジーを作り続けるのはもはや無理があると思った」

という監督のことばの重さよ。

だけれども、ならばこの先の未来、アニメーターは、映画監督は、漫画家は、小説家は、脚本家は、音楽家は・・・、なにを描けばよいのでしょう。
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