祈ってきた、聖霊の満たしであったが、今日は、それを捨ててみた。そうすると外側の聖霊の傾注があるではないか。実は私はこれを28年祈ってきた。アブラハムがイサクを全焼のいけにえとしてささげようとしたとき、藪に角をひっかけている羊がいた。まさに主の山に備えありだ。アドナイイルエである。(創22章であった)皆様。何か霊的体験を求めておられるとき、それを一度捨ててみるのも、近道ではないか、と思った次第である。否、霊的体験にかかわらず、すべてのことに、それが言えると思う。神はご自身よりも大切にしているものがあることを、嫌われる。霊的姦淫になってしまうからだ。創22:1−14
わかりにくい方は、ゆだねつつ祈るものだ。なお、アブラハムに与えられた雄羊は、イエスキリストの型である。

1