信仰生活はある意味戦いだ。全身全霊をかけた戦いだ。これは、この地上が、play ground ではなくして、battle field であることを認めなくてはならない。皆さんの中で遊びながら仕事をする人がいるだろうか。趙ヨンギ先生は信仰生活を霊的戦争であると唱えた。既に主イエスのいのちを受けてはいるが、まことのいのちの実を結ぶためには、戦わなくてはならない。私のような小さなものでも、十字架にたどり着くまでだけで24年戦った。特に30代は壮絶であり、一週間、うつ病と戦って、バイトをしながら、土曜日は徹夜で、日曜日教会に行った。
私は当時、予備校の教師をしていたのだが、授業が終わるとすぐに帰れずに、長椅子の上で寝ながら苦しんでいたのを思い出す。しかし勝利は43歳のとき十字架に出会った時であった。あの時から、私の心に平安と喜びが訪れるようになった。それまでは暗闇であった。これは私の小さなお証しであるが、私より大きな苦労をしている方々はごまんといる。大体本当に苦労している人生の勇者たちはこんなことを書かないものだ。すなわち信仰を持っているが故の苦しみ、というものが絶対あるはずだが、そこは、あなたが十字架を負うかどうかで、御国での位が変わってくる。
『「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」』マタイ16:24
救いだけ受けて、十字架を負わないで、天国に行こうとする、そういうのを「甘えん坊信仰」という。

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