わたしたちは誰でも十字架を負っています。病の十字架、経済の十字架、職場の十字架、教会の十字架???家族の十字架、義務の十字架、これらを背負っていると苦しみですが、クレネ人シモンを考えてみましょう。彼はなぜだかわからないけど、十字架を背負わされました。しかしそこには主の臨在がありました。無理やり歩かされていくイエス様、その御臨在の後をシモンは十字架を背負っていったのでした。彼は不思議な力を感じていたでしょう。私たちは自分の十字架を負ってイエスの後を進むのです。そこにはイエスの力が満たされており、『わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い』マタイ11:30と書かれております。
『だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい』マタイ16:24
『狭い門から入りなさい。滅びに至るもんは大きく、その道は広いからです。そして、そこから入っていくものが多いのです』マタイ7:13
簡単に言うと自己否定の道を歩むとそれだけ祝福されるということです。

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