神はその十字架によって、私たちが告白さえすれば、どんな罪でも赦してくださるが、私たちが人の罪を赦すには、自分が十字架に付けられなければならない。私たちの罪が赦されたとき、私たちは号泣するが、その後人を赦すときは赦せる。しかし、私たちのほうに罪が見当たらないときは難儀だ。このとき必要なのが自分の十字架なのだ。僕が主人から1万タラント赦されたのに誰かの100デナリを赦せないのはおかしいというのが神の理論だ。私の罪対ひとのつみは60万:1私たちを赦してくださったのは60万であり、私が隣人を赦すのは1なのである。それほど十字架は苦しかったということ。を理解しよう

0