気ままなひとりごと (不思議なことにキョーミアリアリアリアリ〜〜〜〜〜〜〜〜)
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2005/9/28
細木数子さんの番組を後半の方?を見ました。
それをやってはダメ。
ぼくはこの言葉に抵抗があって
それをいう人にも抵抗を感じていました。
そして細木数子さんにも抵抗を感じていました。
料理をしなさい。
命令的に指示的に言う言葉にも抵抗があり
それをいう人にも抵抗を感じていました。
ダメや
〜しなさい
その奥にある思いや理由
なんでそうするのと役立つのか?と思うのか?
を言うとき
それを聞くとき
ダメや
しなさい
と言わなくても
本人の理解から動けんじゃないかと思った。
料理はね
子供を育てるときに
できないと、子供が死んじゃう
病気になっちゃう。
だから料理を覚えて。
確かそういっていた。
コンビニ弁当ではなく
手作りの料理。
なんでやるのか?
なんでそれをやると役立つのか?
それをやるとどう役立つのか?
その思っている理由を
言うことで、伝わって動くんじゃないかと思う。
それを聞いて
なるほど〜
な感じに思った。
料理しなさい
だとわかんなかった。
当たり前なことだけど
料理しなさいといっている理由が・・・。
あれっ。
料理しなきゃダメと
言った人は細木数子さんじゃなかった。
ゲストのひとりだった。
そのひとだった。
料理しなきゃダメ
手伝いなさい
私が子供の時はそうしていて
それが普通、当たり前だった。
料理しなきゃダメ
〜しないとダメ。
最初そういわれたとき
わからなかった。
料理しないと
子供が不健康になりがちに
なるから、料理をして作った
そのごはんで元気になってもらうためにも
それをする
ということだったのね
なんて当たり前のようなことに、なるほど〜な感じを受けた。
女子高生たちが泣いているのにも少し驚いた。
ぼくには
そのとき相手の気持ちをくんでいる、肯定受容している
感じに見えた。なにかを教えなどを伝えることよりも。前に。
そしてそれを、相手本人の思いを代弁している感じのような
ことが見えた、すこし感じれた。
このとき相手のことをダメだと言ってない。
そして言った。
あなたは凄いんだよぅと。
99人と全国のテレビを見ている人の前で
あなたのしたことはやってはいけないと
伝えることができる。
指導者になれる。それを止めることができる。
体験者として。
と。
確かそんな感じ。
そして
相手の腰や背中をパンパンやったりして
邪気をはらったそうだ。
そしてその相手を抱きしめた。
大丈夫だよ
と。
その女子高生は泣いていた
・・・・。
さて、それでは
タッキーの司会者としてのセリフが
機械的に感じちゃった。
ぼくの
目の前にダメな人に見える人がいる。
じゃあそのひとを助けよう(かな)。
言葉を贈ろう(かな)。
伝えよう(かな)。
でも
それは
相手を否定したままで伝えようとしている。
このひとはダメだから。
ぼくは
そのひとを受け入れていない。
伝えるよりも前に。
肯定していない。その人自身を。
意識を上げろっ
真理に気付けっ知れっ
ぼくはこころの奥ではそう思っている。
そのひとを否定している。
そのひとに無視されるのは
そういうことでもあったのかも知れない。
意識を上げず
真理もあるとしたら
気づかずにこの人生を去るのもアリかもしれない。
ぼくを悩ませるその人は
ぼくが恐れているその人は
ぼくを傷付けてくる(ように感じる)その人は
今のそのままの意識で
今のそのままの真理?や気づきで
すばらしい
たとえ
意識が上がらずとも
真理?などに気づかなくとも
ということに
ぼく自分自身が気づいていない。
気づきかけたのか・・・
意識が上がらないと
真理?に気づかないとダメだ
という考えがある。ぼくに。自分に。
楽しまないとダメだ
という考えもぼくの中にある。
その考えは
諸刃の剣。
それは自分自身を斬るのにも使われる。
自分を裁くのにも使われた。
意識を上げないとダメだ
真理?に気づかないとダメだ
楽しまないとダメだ
そうしなくてもいい、
そうしないのもアリ
きっとそうなんだ
ぼくはそう思いたいけど
思えていない。
意識
真理
楽しさ
それらを上げることを
関係なく
ただ相手を見たり
意識
真理
楽しさ
を上げることをしなくてもいいゼロ、しないのもアリで
ただ接したり
そういう感じで
見たり接したりすることを
忘れていたのかも知れない。
忘れていたというか
ほんの少し思い出したり、感じたり
ほのかにしただけなのだけど。
そんな、アリ感や肯定や受容が
ぼく自身の意識を上げるのにつながったり
楽しめることにつながったり
気づきを増すのにつながったり
するのかも
それ(意識・真理・楽しさなどのアップ)
をしなくていいと思ったときに。
一見矛盾。っぽくみえる。
なんか、もやもやがあるけど(自分自身に)
そのうち晴れるかも
知らんが。
真理や人生の仕組みや自分のことなどが
知りたい
死んだらどうなるのか?
地獄のようなところはほんとうはあるのか?
ぼくは記憶をロックして生まれていたのか?
生まれ変わる瞬間、とき、シーンがあったのか?
なんで覚えていないのか?
生まれるときに計画をして生まれてきたのか?
もしそうだとしたら、計画をしたときを思い出せないのは
なぜなのか?
運命は決まっているのか?
運命は変えられるのか?
運命を変えたとしても、それもまた運命通りなのではないか?
意識でなにもかも変わり物質化、現実化するのは
それも運命通りのことなのか?
なんで宇宙が存在しているのか?
なんで自分は存在しているのか?
ほんとのところはどうなのか?
ほんとのところということ自体があるのだろうか?

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2005/9/23
人生のしくみメモ(仮説)
を書いてみました。
はっきり言って体験とかも
薄いから確認も取れないし
断定もできない。
それで本などを読んできて
自分が思う 有力なしくみの仮説はこんなんかなという
のをまとめてみました。
そのなかでも
森田健さんというひとが書いた本は
実証や実体験からの比較的論理的で
科学的な立場から人生や時空の仕組みを
不思議なことから解明して仮説を
立てていく人です。
その本がおもしろく参考になりました。
ぼくは最近
森田健さんのホームページ
「不思議研究所ドットコム」に寄っています。
驚くことが更新されているから。
え〜〜!マジでぇ!?
ってことがありました。
最近びっくりしたことは
顔を見て森田健さんのチンコに(大きめの?)ほくろ
があることを当てた人がいること。
それに流産した子供がいるでしょ
と当てたこと。顔をみて当てたみたいです。
そのひとは面相占星術をやっているひとで
当てれたみたいです。
顔を見てなにか計算して当てれるそうです。
さらに驚いたことは
見えないようにポケットにお金を入れて
それを面相占星術で顔を見ていくらか当てられるか
というものだったのだけど
それがあたってしまったのだぁ〜
なぜ顔でわかるのだろう?
顔に人生のプログラム具合が出ているのだろうか?
星と関係がある?
なんて。(今、質問したときに
顔と(空)星に関する歌が流れてるから(外応シンクロ?))

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2005/9/21
3泊4日で行ってきました。北アルプス。
雲ノ平とか水晶岳とかあるところ。
富山県のところ。
2800mくらいまで登ったよ。
これが、めちゃ疲れたんだわっ。
特に2日目がっ!
頭が痛い痛いっ!
「今、どんくらい?」
「50くらい」
痛みや疲労度や辛さに
点数や数値化していたのだぁ。
頭が痛くなったのはなんでだろう?
高山病的なこともあるかもしれないけど
ぼくは、精神的な心理的なことからも
来ていると思った。
一緒に登る仲間たちに心を開いていないのだ。
それは自分に開いていないということでもある。
自分を受け入れて解放できていないのだ。
仲間に気を遣って、気にしている。
3、4人で登るとペースは自分にとって心地いいペースから
少しは遠ざかる。そういう原因もあるかもしれない。
でも、思うのだ。
自分を受け入れていないし
自分を解放していない
ということに。
それで
「こんなじぶんでいいのだろうか?
ダメなんじゃないだろうか?
こんなじぶんは受け入れられない
つまんないやつなんじゃないだろうか?
きっと、そうなんじゃないだろうか?」
など、自己否定の嵐バンバン
そして
頭の痛みも嵐バンバンだった。
そしてタダでさえ口数が少ないぼくが
否定されるのを恐れて、さらに口数が減って
つまらない自分ということに対する
恐れやつまらない自分は受け入れられないという
恐れがましていった。
あるとき(次の日・3日目)なんて
びびった。
じぶんでびびった。
山登ってて、細い道ですぐそこ1、2歩で
崖だった。
周りで楽しそうな話をしていて
ぼくが、おもしろい話ができていない
そして、ぼくはつまんないやつなんだ。
と思えてきて、こんな自分・・・・
こんなつまんない自分・・・・。
とか思えてきたら
崖に行こう・・・
という気持ちがちょっと湧いてきた。
うわっ
やばっ
そっちちがう
進むっ
テクテク
おぉ〜
危なかったぁ〜。
大いなる自己否定(笑)
恐怖はいくらか死から守るような働きが
あるかもしれないけど
自己否定、こんなつまんない自分生きていて価値がない
の思いは
死へと向かうということを
北アルプスの山で体験してしまった。
危ないよっ!
山の頂上は(祖父岳)綺麗だった。
見渡すかぎり
山
山
山
山
山
気持ちよかったわ、あそこは。
18日の夜あたりか
満月が見たいと思って
仲間と外にでていったら、
月がなかった。
それでぼくは
「満月が見たかったなぁ」
って言った。
その20秒くらい後
森の木々の木漏れ日から月光が
きらりきらりと光っていた。蛍の光の強い版のように。
それで月が出て来る瞬間を見れたのだった。
10分遅れたら瞬間が見れなかったヌーン。
10先に来てたら、月自体を見逃していたかもだヌーン。
ありがとう。
そして山登りを無理なく気持ちよく登るには
精神的に感情的に
自分を受け入れて、解放していることで
気持ちよく、無理なく登れると思う。
これは人生でもいえると思う。
でないと、周りの自然ががいくら綺麗でも
自分を守ることやまわりの人に気を遣うのに
ばてて、気力を消耗していっていく。
それに、気力を消費するだけじゃなく
自然からの力や綺麗さ、美しさを感じにくくなり
エネルギーや力や気持ちよさを受け入れにくくなる。
と同時に肉体の体力も崩れると
登るのが辛くなる。健康な、元気な体。
元気体が、気持ちよく山を、人生を昇るうえで
キーとなるものなのかもしれない。
元気心体
元気肉体
どちらが崩れても
じぶんが落ちる。
心が崩れると
自分から落ちに行く。
肉体が崩れると
おっとっとで落ちていく。
下山したときには、足が笑ってたわ。
でも無事に昇り降りできてよかった。
ありがとう。
無理しないペースで
かつ
速く昇るには
元気心体
と
元気肉体
おおまかにいうと
この2つを元気にしていくと
速くて無理せず、昇れる
のではないかと思う。
人生でもそれはいえてるかも。
右足だけが痛くなった。
心臓的にはまだまだ元気が残っていたのに
スピードダウンに無理して歩きやすくなる。辛くなる。
「ちょっと休んでいい?」
という勇気も必要だったりする。
肉体の元気が減ったときはいいやすいけど
心の元気が減ったときにはいいにくい。
「ぼくがこんなところで休みたいと言って
みんなに迷惑をかけたらいけない・・・
ぼく一人が休むなんてそんな価値自分にはない・・・
歩こう・・・昇ろう・・・・・」
みたいな。
元気体力も減って
元気心力もつられて、ダウンしやすいのかもしれない。
そして
元気心力がダウンすると
元気体力がつられてダウンする。頭痛い痛いになる。
不快の循環だぁ。
ぼくの場合は
山小屋に泊まったとき
みんなに合わせずに
一人だけ寝て
回復した。
よかったぁ〜。
頭痛もけっこう治ったし。
「今、どんくらい?」
「5くらいかな」
翌朝また聞かれて
「今、どのくらい?」
「消費税くらい、5くらい」
ボケれるくらい、自分を受け入れられて
自分を解放できた。ありがとう。
密かに
山登りと人生、アセンションを重ねて
見ていた。
ゆっくり
自分と他人のペースがずれようとも
自分が歩きたい、昇りたいペースで
味わうことが
感じることが
5感とかで体験することが
山昇り、意識昇りで気持ちよく昇るには
大切なことなのかもしれない。
それが醍醐味なのかもしれない。
進むことより、頂上まで達成することより
速く歩くことより、学ぶことよりも。
プロセスを抜かすと味気なくなる
すかすかになる感じ。
だって頂上まで達成しても
また来たところに降りるんだもん。
結果なんてほんとは
ないのかも。
いつも結果で
いつもプロセス。
そして踏み出すその一歩は
小刻みに歩幅が小さく回数を重ねる方が
無理なく疲れずらく、気持ちよく上れる気がした。
ちまちま昇る感じ。ちょこちょこ。
大きな一歩は足に負担がかかる。
それよりも
小さな3歩に変えて昇る方が負担が少ないように感じた。
たとえ、そのちいさな一歩が10cmであろうとも。
それはきっと北アルプスの山々を昇れ降りれるのだろう。
ちなみに
水分を南アルプスの天然水2リットル持って行った。
それを北アルプスで飲むぼく。
きれいな水が豊富にあるよっ。

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2005/9/15
お金のいらない国
資本主義経済から
次のものは
このようなものになるのかもしれない。
プラウト主義経済
〜百匹目の猿現象加速化計画〜の伸介さんが書いたブログの記事に
ぼくでもわかるような感じで書いてくれている。
(あんまりわかってないところもアリっ!笑)
このまま行くと
もしかしたら
資本主義経済社会は壊れていくのかも知れない。
移行していくのかもしれない。
郵政民営化にもなったし。(笑)
ぼくは今頃になって
あちゃ〜〜〜!って気分が少しする。
選挙でぼくが1票入れたのは
郵政民営化へつながる1票だった。
(9・11に1票)
あとから
人生の探求のutamaroさんが書いた記事を見たこともあって
船井幸雄さん「船井幸雄.com」で
〜郵政民営化のもっとも大事なポイントを
一言もいわない小泉首相〜
郵政民営化になるとどうなっていくのか?
ということを
知ったのだ〜!
1日遅いっ!知ったのが〜自分よ〜!

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