2011/7/8

公開制作? 7月9日  美術

【全感覚派秘密倶楽部 1】
2011年7月9日(土)
高橋辰夫:公開制作します

(絵を描く3掃除1ダラダラする3その他3)
11時〜18時?
無料(カンパあればお酒買います。ワインはちょっとあります)持込自由
場所:経堂駅(小田急)より10分 *詳細メールします

*興味ある方は下記へご連絡ください。追って場所をメールします
taxxaka1964(a)ezweb.ne.jp
(a)を@に変換ください


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コメント

だれかが居る中で、関係なく絵を描いたり、テレビを見たり、その人と話しながら制作するのが好きです。
公開制作というと、みんな速い絵を描きますが、普通です。あまり進まないかもしれない。
グループ展近い中、絵が煮詰まってきたからなんとなくの衝動です。

誰も来なくても絵を描いたり、寝たり、テレビ観たりいつもの日常を過ごすでしょう。
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2010/11/14

かつてなく今後もない『誕生以後、』について  美術

イベント『誕生以後、』とは何だったのかを、当事者として考えていた。というより、断片的に頭に浮かんでいたことを書いてみたい

「自分の誕生日を記念する」という考えはもちろん動機としてあった。これは田中アスカさんのイベントにも触発されたものだ
一般に「誕生祝」というのは本人が自ら手をあげて人に強要するものではない。けれども、それを転倒して自らを見せ物化することには、なにがしかの魅力を感じた。とはいえ、そういうことだったかと言うと、なんだか違う気はする
確かに、当初はもう少しライブイベントのようなものを頭に描いていた。それはパーティに近いものだった。だが、実際は地味なトークイベントであり、そこに「祝」という気配はなるべくないように考えた。おそらくもう一つの「46歳」というテーマが、それを招来したのだと思う

半生というものがどこで区切りとなるのかはよくわからない。しかし人の一生を80年と考えると40年になる。だが実際、物事を意識して活動をはじめるのは18くらいからだから、そこからを「人生」と捉えると、80-17/2+17くらいが転換点となるのではないか(とまでは考えてなかったが)。その場合は48.5歳が半分になる
もう一つは、美術作家というものが、その人の活動がある程度メジャーな有名なものであれば別だけれども、そうでなく地道に活動されていた場合、少なくとも日本では、40代以降の業績や、活動というものにスポットが当てられることはない。いや、有名な人であっても、その過去の作品や業績が評価されることを前提に、それ以後の現在を評価するようにも感じられる

もちろん、だから自分に注目して欲しい!というイベントだったわけではない。そうではなく、たとえば営業職でも研究職でも、或いは警備や掃除などなんでもいいのだが、あらゆる職業の一つとして「美術家」というものを捉えることは、それがなんらかの経済活動に関与している以上、絶対に必要な事ではないにしろ有意義なことには思える。美術で食えるか食えないかはとにかく、そうした職業というもののもう一つの側面として、ある個人に可能な自己実現の発露(という言い方はいかにも新興宗教的だが)として必要な条件でもあるだろうし

いずれにしろ、選ぶと選ばざるとに関わらず、人はその職業や人生を決定づけられて生きる他なく、そこにいわゆる不公平も生じるのかもしれないが、多様性というものは概してそうした不公平を許容した中に存在する。つまり、美術が「純粋」で、いわゆる「成功」や「経済」原則から自由であると考えるのなら、極端に言えば何でもいい筈だ

しかし、もちろん自分は(美術が)何でもありだと考えたことはない。少なくとも、何でもいいと思って作品を作れる(作り続ける)ことなどできない筈だとは思っている。さらに考えれば、先のいわゆる現世的な成功の要件をまったく退けることも難しい。そうしたさまざまな条件の集合を退けた先に現れるなんでもない何かこそが、美術の決定的な出来事、或いは分割不可能な「物自体」であるとするならば、その表象としての「現れ」を取り扱うのが「芸術」であると考えることができるわけで、それはまさに、自らの存在についての不断の疑念は前提となる筈だ

で、あるならば、作品・作家はけして無関係なものではない。仮に「この私」が「作品」のために用意された器であったとしても、その器には選択されたなんらかの条件があった筈である。そのことについて、今現在から過去を振り返ることは、とりもなおさずここから先を考えることに他ならない。さらに、大海の一滴にも満たない「この(作品を創るという)私」という存在について考えることは、なんらかの意味で、美術の現在について捉え直すことに繋がっていく

だから、自分としては美術の「誕生以後」を、誰しもがそれぞれの「この私」の「誕生」以後、或いは「美術家としての誕生以後」に重ね書きし、その意識を更新し、新たな現在の構築に向けて、ほんの少し意識の見直しになる契機となればいいなと思ったわけで、当然それは自らにも向けられている

ではこれから自分がどうしたいのか、どうするのかが見えたかと言うと、むしろ逆で、もしかしたら美術を断念するかもしれないという気分に今はなっている。しかしでは、美術を断念するとはどういう意味なのか、それを明らかにするのは容易なことではないため、結果として、それを暴くために美術に関わらざるを得ないかもしれないとも思います

そうした気分はそんなに悪くはないのです

或いは美術展風に言えば、「新たなる総合に向けて」というより「新たなる解体に向けて」のイベントであったし、そこで解体されるのは誰しもの「この私」であり、同時に、意識された美術そのものであったかと言うことでしょう

「半生を振り返る」というイベントは人生において一回しか許されないし、もう二度とない。その意味では貴重な機会だったし、来て頂いた方にもある歴史に立ち会ってもらえた(共有された)とは思う。ある意味、この小さなこのイベントの持つ、宇宙的な時間における一回性を考えると、ほとんどのイベントにもはや行かなくてもいいかな?くらいの気持ちにはなっています(笑)
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タグ: 美術 アート art

2010/11/12

[告知]誕生以後、 11/12@commune  美術

本イベントは終了いたしました
ご来場いただいたみなさま。ありがとうございました

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「誕生以後、」
美術作家Taxxakaは、2010年11月6日で46歳になりました
この日は、その半生を振り返りつつ「美術」とそれを巡るなにかについて、語り合い、音を聴きます
聞き手は新・方法主義者として注目される平間貴大氏
会場BGMとDJは、美術作家の河田政樹氏にお願いしました

出演:Taxxaka、平間貴大 BGM+DJ:河田政樹
2010年11月12日(金) 19:00 - 21:35
¥300-+1drink order
会場:commune  〒 155-0031 東京都世田谷区北沢2-33-6 2F
TEL:03-3466-5198
http://www.ccommunee.com/

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Since Birth
Cast:Taxxaka、Takahiro Hirama, Masaki Kawada
Time & Place: Fri.12 Nov. 2010 19:00 - 21:35
commune 2F,2-33-6 kitazawa,setagaya-ku,Tokyo, Japan 155-0031
Admission:¥300- +1drink order

TEL: : 03-3466-5198
http://www.ccommunee.com/


プロフィール
Taxxaka a.k.a. 高橋辰夫
美術家/全感覚派・グラフィックデザイナー
1964年東京生。多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒。日常の経験を元にした絵画、写真イメージ、動画や音響による作品を制作。都市と日常、少女、文学との関係は強く、メランコリーな傾向がある。思考の中心は「映画」と映画をめぐる言説にある。
グラフィックデザイナーとして泉沢儒花とビジュアルユニットBit
Rabbit(ビットラビット/98年より)を結成、美術小冊子appel発刊。2002年に同名のショップを世田谷区経堂に開店、2006年に閉店した。
www.bit-rabbit.com
IDEA NO. 328 : デザインの草の根 Bit Rabbit記事掲載 


平間貴大
http://hrmtkhr.web.fc2.com/
2010.8.5(thu) - 14(sat)
 第1回平間貴大初レトロスペクティブ大回顧展/20202
2010.8.18(wed) - 23(mon)
 「反即興演奏としてのマラン・メルセンヌ+ジャン=ジャック・ルソー」
 「10年遅れた方法音楽としてのマラン・メルセンヌ+ジャン=ジャック・ルソー」同時開催展/loop-line
2010.8.24(tue)-29(sun)
 「最高写真展」「世界最高写真展」同時開催展/明るい部屋
2010.9.4(sat)
 Qwertyu.mp3 party!!!+この夏の展示を振り返る/POOL


河田政樹
http://www.black-river.org/mkw/
1973 東京都に生まれる
1999 多摩美術大学大学院美術研究科絵画専攻 修了
個展
 2010 "background" 藍画廊(東京) 他多数
グループ展
 2010 "Collection / Selection 02" GALLERY CAPTION(岐阜)
"THE LIBRARY ASHIKAGA" 足利市立美術館(栃木)
"建築家 白井晟一 精神と空間" 群馬県立近代美術館(群馬) 他多数
アートフェア
 2010 "超京都" 杉本家住宅(京都)
プロジェクト
 2001-04 "かわだ新書プロジェクト"
著作物
 "ノート"(自主発行版)
 "アートする美術"(かわだ新書001)
 "写真ノ書"(かわだ新書002)
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タグ: 美術 アート art

2010/9/18

この夏の反メディア・アートを振り返る  美術

書こう書こうと思っててもいつまでも筆が重いので、携帯からとりあえず書いては、途中で止めては書き加える方式で書いてみます。
取り上げたい作家・展示は以下

・毛利祐子
・ユタカワサキ
・スズエリ
・平間貴大

四者に共通するのはメディアに対する自覚的なアプローチと、視覚と聴覚を表象において等価に扱うかの態度だ。
毛利さんの場合、聴覚へのアプローチが意識的にされてるかについては意見が別れるところだが、物語を排した時間/芸術を広義の音響芸術と見做してよいと考える。

また、いわゆるギャラリースペース外、強いて言えばオルタナティブなスペースを中心に組織されていることもこれらの展示の大きな特徴で、例えば松井みどりに倣ってマイナー芸術としてのポストモダンにカテゴライズしてから思考することも可能だろう。

しかし自分はむしろ制作動機において、スズエリさんを除き、物語性を排したこれらの作品・作家について、ある種の物語的漸近を試みたい

(続く)

はい。続き
しばらく放置していたこの記事を今さら読む人も居ないとは思うが、(続く)と描いてしまった言い訳になにか書いてみる事に

twitterやり出してから日記を書くモチベーションがすっかり削がれてしまった。(作曲に対し、即興演奏にもまたそうした気分のようなものはあるのかもしれない)

[毛利祐子]
http://www.mohrizm.net/
毛利さんは3カ所で発表していた。
分裂した展示、分裂した形式、身体・・。と書くと80年代的かもしれないが、構わないだろう。今はテン年代、つまり形式なき身体の時代でもあり、或いは80年代の再来のディケイドなのだから。

速度と遅延、誤配といったテーマからデリダを想像するのは自分の誤読癖と、勝手な妄想である。しかしタイトルその他にたぶんに「アメリカ」的表象を纏いながらも、いわゆるテクノロジーアートの残滓のような装置が、夥しいなにものかをひきづってはゆっくり動いている。しかも円的な動き。そしてそれは(という自動翻訳機のような語りは意図的です)、テープを想像させる。
テープ。データではなく

今、ここに居る時間は、永遠に停止しているかのようで永遠に作動している。そんな当たり前の出来事を今年の灼熱に呈示する毛利悠子の作品は冷静で要る事によって祝祭をその外側に放つかのようだった。

[ユタカワサキ]
http://rojitohito.exblog.jp/11011836/
反メディアアートも親メディアアートも僕にとってはそんな変わりはないのだけど。まあしかし、その純粋な仕種によってこれは反メディア的なのかもしれない。

剥奪された器官。器官なき身体、的な(笑)。
(笑)はユタカワサキ氏の演奏にもまた見受けられる。凍り付いた笑い。冷笑的と、それを書くと意味が違って感じられるから不思議。
「SUMMER IN SUMMER」と名付けられた路地と人での展示もまた、白い空間に白い(?)装置がごろんと置かれただけのシンプルかつ冷たい感じで最高!
手足を剥奪された(かのような)それ(監視カメラ)は、まるで障害を受けた身体のように不自由に動くのだが、そこにヒューマニティを見てしまうのは「14歳」(楳図かずお )以後の人間のサガなんでしょうか?

もっともそれはなんらかの装置(コンピュータ)で、なんらかのコントロールをされ、なんらかの記録(映像)をしているという意味でも人間的かもしれない。しかも目的すらわかlないという意味において。だからこの単純であっけない装置こそが人間のある複雑さに漸近してるって言っちゃうと複雑系みたいな話であんまりおもしろくないのだけども、実際の展示はなんだかアットホームだったりもしたのだよ。だからあの文字通り灼熱のライブに行けなかったのはちと残念。みたいな

(続く)
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タグ: 美術 アート art

2010/5/10

『六本木クロッシング-芸術は可能か?-』(その2)  美術

 ダムタイプについて、予備知識はないことはない。が、実際は大きな勘違いをしていたようだ。

 水戸芸術館や初台で、幾つかの装置を見たことはある。しかしステージを観たことはない。BTなどの紹介記事や批評からは、テクノロジーとAIDSをテーマとしたカリスマ的若者を中心とした芸術集団というイメージしか持っていなかった。紹介者の多くが古橋氏への思いが強く、個人的なダムタイプへの気持ちが前に出てたからかもしれない。
 今回、映画化された「S/N」を観る機会を与えられ、やはりこうした作品(ステージ)は観てみないとわからないという気持ちになった。

 今日の小演劇以後の演劇の活況について、また如月小春以降の身体、テクノロジーの実践について、やはりダムタイプは重要な位置にあるようだ。しかも、先に書いたイメージと現実の乖離こそが、彼らが身をもって体現しようとした美術/形式に他ならない。
 自分は経済やさまざまな事情、先入観から、演劇やステージパフォーマンスから距離を置いてきた。しかし、往事の寺山すら彷彿させるこうした集団の在り方とその成果、そして古橋以後のダムタイプについて、きちんとフォローしていかなければいけないと思わされた。

さて、ほとんどダムタイプについての話ししかしていないが、ダムタイプについて語ることは本展覧会のコンセプトについて語ることであるだろう。そこから美術の現在を、chim↑pomを見ることに意義がある。

 chim↑pom、宇治野氏とも、美術館向きの形式に収まった展示を見せたが、そのことにより今日の美術の成熟と現在が明らかとなった。全体を通じて、日本の現代美術が、言われてきた破壊とアバンギャルドの繰り返しのループを逃れ、より個人と社会の関係の中で機能する力を示しつつあることが感じられた。


 個人的にはcontact GONZO の形式化された身体による、管理社会への介入や、見事にデザインされたポストオルタナティブの今日的スタイルを示したログスギャラリーには大きな刺激を受けた。
 もちろん、劇場性の高いパフォーマンスのみが、今日の芸術が示すべき唯一の方向とは思わない。ただこの展覧会に示された美術の現在は、絵画、彫刻の来るべき方向をも示し得る。ログスギャラリーや匿名アーティストのタグにそれもまた散見された。

 私がわたしたちの中でわたしでいられる。そうしたわたしたちを分割する諸制度の外に場所を確保すること。そこに芸術の大きな役割はあるのだろう。
 作家としての成功、或いは作家デビューという言葉の不毛もまた伝わるかもしれない。
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タグ: 美術 アート art



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