2011/1/3

16本しか観てない【2010年】  映画

昨年公開作の映画を何本観たかざっと調べたところ、結局16本しか観ていない。
それでもおととしより観てる気もする。経済力のなさが反映しているが、そこで自分の判断基準も明らかになるのはおもしろい気もした。やはりアメリカ映画が多い

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観たもの
『インビクタス/負けざる者たち』 (アメリカ合衆国)
『ハート・ロッカー』 (アメリカ合衆国)
『ウディ・アレンの夢と犯罪』 (イギリス)
『第9地区』 (アメリカ合衆国・ニュージーランド)
『冷たい雨に撃て、約束の銃弾を』 (フランス・香港)
『アイアンマン2』 (アメリカ合衆国)
『アウトレイジ』 (日本)
『インセプション』 (アメリカ合衆国)
『シルビアのいる街で』 (スペイン・フランス)
『ナイト&デイ』 (アメリカ合衆国)
『乱暴と待機』 (日本)
『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』 (アメリカ合衆国・イギリス)
『クリスマス・ストーリー』 (フランス)
『ノルウェイの森』 (日本)
『トロン:レガシー 』(アメリカ合衆国)
『ゴダール・ソシアリスム』 (フランス・スイス)


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もっとも素晴らしいと思った映画は『クリスマス・ストーリー』
次点は『ナイト&デイ』
美しかったのは『ウディ・アレンの夢と犯罪』
別格は『ゴダール・ソシアリスム』
残念だったのは『インセプション』、最悪は『ハート・ロッカー』

*実際には『トロン:レガシー』は2011年になってから、『シルビアのいる街で』は2009年に映画祭で観てます

物語が復活しているように思え、とりわけ『ナイト&デイ』における語りの力強さに打たれるものはあった。もちろん、それが過去の遺産の再配分であるとしても、映画は死して蘇り、新しい世紀を生き延びている
また『インセプション』『トロン・レガシー』などでわかりやすく徘徊するキューブリックの亡霊について考えざるを得ない。キューブリックはマイケル・ジャクソンのように死後その輪郭を鮮明にしていく映画作家であり、その作品の多くは映画的失敗と共に何らかの傷を残し、今なお多くの問題を投げかけているように思えた。と、いうことをこれらの作品は意図せずして伝えてくれる。『第9地区』『アイアンマン2』などに観られる「政治-ドキュメンタリー」と「映画-エンタテインメント」の拮抗と不協和と調和といった問題にも、もしかしたらキューブリック的な映像/物語の対立軸が影を落としているのかもしれない。『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1』『ノルウェイの森』における語りの失敗と映像の過剰といったことも同様に思える
そう考えると「物語」の復活というよりは「映像/物語の分裂と和解」がポスト・モダニティ以後の映画にとって目下の問題なのかもしれないとも思ったが、、観ている映画のπが小さいからそこまでは判断できないか(笑)
見落とした多くの傑作は今年dvdで観たいと思います。とりあえずは『ローラーガールズ・ダイアリー 』は観なくては…。
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2010/12/26

映画『ノルウェイの森』についての歯切れの悪い日記  映画

映画『ノルウェイの森』を観ました
http://www.norway-mori.com/index.html

ところで、僕は映画化不可能な本は原則的にはないと思いますし(当たり前ですが)、あらゆる映画は原作があったとしても、それと切り離して評価、判断されるべきだと思っています。「映画的な自立」は、原作に忠実であるかどうかではなく、総合的な判断でなされるべきですから
 とはいえ、原作ものの場合、物語、キャラクターはあくまで原作を下敷きとしているので、全く原作と無関係な映画というのも不可能でしょう

先に言えば、『ノルウェイの森』という映画は、トラン・アン・ユンという監督によるある果敢な挑戦のフィルムとして記憶されるべきだし、原作を読んだ人にも読んでない人にもそれなりに観る価値のある作品だと思っています。また、この映画によって、原作の持つある種の深みが、より明確にその輪郭を示す契機となったのではないかと考えています

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その上で、いわゆる「映画」としてはこの作品は失敗しているように見えました。厄介なのは、その失敗がいわゆる積極的な失敗とも、駄作としての失敗とも違う場所にある気がして、なんとも言えない気持ちになったことです。あるいはこうした謎を投じたという意味で「成功」と看做すことも可能かもしれません

ところで1967年という時代背景のせいか、幾つかの映画を想起させうる、「時代と寝ている中での心象の浮上」といった側面を感じました

この映画はトラン・アン・ユンの幾つかの映画と同様、その審美性(というよりかは無垢な美への傾倒かもしれない)をキーに、観客にそれぞれの体験との結びつきを強調し、物語より感情移入を優先するような作りに思えます。つまりリアリズム重視の構造的映画体験より、映像詩に近い形での情緒的移入が先行されるのですが、その意味で、セット然とした美術と、ジョニー・グリーンウッドによる音楽設計が意味を成していました
 しかし一方、原作への忠実さをある種のリアリズムで喚起させようとする画づくりも随所に観られ、映画的詩情とリアリズムの配置と選択の奇妙なアンバランスが、この映画の不安定さに繋がったように思えました

我々は原作以上に、主人公の性的冒険を積極的に画面から追体験するのですが、そこでの主人公の心象や動機は全体に不明瞭なままです。さまざまな出来事は具体化されますが、見えないものは見えない状態として画面に示され、エモーショナルな光が導入されます。

結果、性行為の描写にも不満を覚えました
 いろいろ制約があったのかもしれませんが、大人の映画であるならば、より踏み込むべきだったし、或いはそこでもリアリズム/詩情のせめぎ合いがあったのかもしれません。とはいえ場所と出来事はリプリゼンテーションされており原作以上に出来事が整理されている中で、キャラクターの具体的な行為が(性行為に限らず)、そこで急に抽象化されてしまうと、批判的な観客ならば主人公の受動的な態度と、ある意味都合良く進むかに見える生死や出来事に唖然とするかもしれませんし、好意的な観客もまた、その思わせぶりな美しいショット(?)と切断されたカットに、なんらかの(個人体験、もしくは原作の読書体験に基づく)補助線を引いて感情移入をしていかざるを得ないのです

そうした態度を原作尊重、或いは観客へのイメージ喚起力の導入と捉える事は可能ですが、一般的な劇映画の鑑賞態度としては、観客への要求が高すぎるでしょう
 もちろん見方を変えれば、そうしたトラン・アン・ユンの態度を果敢な挑戦とみることも可能です。もしかしたらこの先に新たな映画文法の可能性が皆無とまでは言えないでしょう。実際、この映画を自分はそれなりに楽しみましたし、随所でハッとさせられるところはありました。とりわけ長い散歩のシーンには感動しました

それでも、やはりこの監督は特定の画面の美的強度が、その象徴性によって、観客の即時の理解に達する筈だ、と言う確信が強過ぎるのではないかと思いました。そこに物語が介在する以上、絵画のような審美体験を観客に強いるのは困難です。さっきショット(?)と書きましたが、この映画においてショットの強度は、審美的完成度と同一視されているように思えました

物語を解体するならより徹底して観念的な領域まで踏み込んで欲しかったし、物語を大切にするのならば、キーとなるシークエンスでの演出、とりわけハツミとの関係などにはより繊細さが要求されるでしょう。終盤のワタナベの慟哭シーンの演出にも首を傾げてしまいました。ワタナベには最後まである種超然とした、空しさをたたえて欲しいし、そこの描き方一つで、かなりこのキャラクターの見え方は変わってくる筈です(でも・・そこも解釈の問題なのかもしれません。個人的に緑の住む古書店二階のイメージに馴染めなかったのも大きかったのです)

とはいえ、ハツミとのタクシーのシーンは印象的でしたし、俳優の選択と、演技の引き出し方にも感心しました。前半、デモ隊の描写にいたるまでの印象的なカットの流れも興味深かったです


いずれにしても、原作で行われている試みの難しさと繊細さが、この映画によって図らずも浮き彫りになった気はします。これが村上作品の積極的な映画化の契機となればいいと思いました

ホン・サンスだたらどう撮っただろうか?とふと思いました



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2010/12/19

『ゴダール・ソシアリスム』  映画


日比谷で『ゴダール・ソシアリスム』を観た。或いは、体感した
以下は観劇まもなくの印象的雑感/と、いうよりメモ、のような。散文

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・当然のごとく、細かい引用やヨーロッパの歴史とゴダールによるその認識について理解は及ばず、また手もとに資料もないままに書き散らすため、事実誤認や実際の映画との違いなどあると思うがご容赦ください
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それに先立って、高橋コレクションで「【新しい】カオス*ラウンジ【自然】」を観る事となったことは影響している
http://chaosxlounge.com/atarashiishizen/info.html
また、ここ最近『蒼穹のファフナー』テレビシリーズを通してみたこともまた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%BC%E7%A9%B9%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%95%E3%83%8A%E3%83%BC


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http://www.bowjapan.com/socialisme/
『ゴダール・ソシアリスム』

3幕による映画。と、いう構成は当然ながら『アワーミュージック』を彷彿とさせる

ここでは煉獄から物語は始まらない。新しい波がそれを告げる
(ヌーヴェルな)『ヌーヴェルバーグ』ですらある。の、だろうか

過去知っている筈のゴダール(映画)に再会する
観た事のないゴダール/シネマが在る
(社会について、お金、経済、波のように、水のように)

-第1楽章〈こんな事ども〉-

そして、船は行く
地中海。ヨーロッパの記憶。断片化された(記憶/画像)
わたし(たち)は、ゴダールの映画(歴史)に立ち会うことを余儀なくされる。が、
荒々しい(youtubeのような)今日的な画像
(即興的なライブ演奏の場でもあるかのような)/サウンドチェックとミキサー(卓)の扱い+乱雑な、(物語)の解体
この手法について・・(誰か、どこかで、名付けられていた・・)

船。波。ノイズ。抽象化された、記憶
断片化する脳/記憶。身体的な所作。いつになくデジタル化された身体。
金塊の消失。ヨーロッパの終焉について、そして歴史の読み直しを迫る世界、の中で、ノイズのみが、経済の現在を、露にする

海。流動化する、記憶。シネマ。太陽

プールに墜ちる美しい、女性(の、官能は曖昧なまま)

ドイツ、フランス、、
エジプト(出エジプト?、聖書的記憶への接続。そして約束の地(パレスティナ)の悲劇/ギリシャ・・)

-第2楽章〈どこへ行く、ヨーロッパ〉-

大人が居る。選挙がある。取材クルー。そしてこどもたち
こどもは、自由に、しかし苛々した気持ちを動物のように(露に)

選挙に出る/出ない (何の選挙なのか・・。何を選ぶのか・・)
権利と義務について、旧ソヴィエトの(鮮やかな)赤い服を来た少年は「誰でも叩く」
と、謳う

美しいガソリンスタンド
都市と郊外。『ゴダールのマリア』の記憶。
労働と記録。『パッション』の記憶・・。
白と黒。動物。悲劇的な/喜劇的な

-第3楽章〈われら人類〉-

エジプト、オデッサ、パレスチナ、ギリシャ、ナポリ、バルセロナ。。人類史の遡行(?)
遡る記憶。蘇る煉獄

人の存在/複数形で語られる〈人類〉
について

エジプトを出て、パレスティナへ・・
(ユダヤ人として「存在する/しない/それが問題」)
(アブラハムによるイサクの犠牲。燔祭(ホロコースト)の羊)

映画への遡行。オデッサ
個人の獲得(?)・・戦争状態 
自失
!?
テキスト 喪失!喪失!
記憶 忘却、忘却

黒/白
シネマ(光)
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2010/11/29

『クリスマス・ストーリー』改  映画

密かに、言葉は改められる。夜に、昼に。

 不幸にして映画作家とならざるを得ないアルノー・デプレシャンの新作『クリスマス・ストーリー』を観た。おそらくは普通の映画を撮ったつもりで、映画に犯された作家は、狂気すれすれの映画を創っていた。
 自らの愚かさの自覚から、蓮實重彦を真似て「この映画に駆けつけなくてはならない!」とアジテーションする愚を犯す事は控えたい。とはいえ、人がもし今年一本しか映画が観れないと言うのなら、迷わずこの映画を薦めるだろう。

 不幸にして映画に犯され、膨大な映画的記憶のストックが新たな化学反応を繰り返しては、自らの映画史を更新し(そして、それは大きな映画史を更新する)、不幸にしてそこから脱出する事の出来ない映画監督/作家であるデプレシャンこそ、呪われた映画作家ユスターシュを後継するポストヌーヴェルヴァーグの歪な後継者だろう。
 その映画的狂気の臨界はカサヴェテスすら召還する。


 めくるめく映画の時間と吃音の交錯。デプレシャンお得意の群像劇の中で精緻に、しかも混乱して配列されたかに見える。
 しかし、それらは映画的要請ではあるものの、通常の映画文法のセオリーを過剰に逸脱しては、多声のインベンションであるかのように、ノイズと吃音、そしてジャズからHipHopに至る騒々しい音響と共に、遂にエンドクレジットに至るまで、転調と脱臼を繰り返しては古典を破壊的に召還しては倒れていく。私の知り得ぬ無声映画からトーキーを通過し現在のデジタル化に至る映画的記憶は、物語を中央から貫いては映画のゴーストを蘇らせる。

 そして、美しい雪が降る。誰の上にも等しく静かに。騒々しく禍々しい狂気の家族の上にもまた。
 家族の小さな歴史は映画史と重なり、正しい用法など(あるのかないのか)ついぞ知らないとでも言うように、執拗にアイリスはインアウトを繰り返す。或いは瞬きすら許さぬかのごとく、周囲に不気味な影を投げかけては、観客を当惑の縁に追いつめる。
 映画や文学の幾多の引用や劇中劇。詳細は専門家にお願いしたいが、あらゆる場所に不気味な幽霊のように横溢しては崇高と不気味さを往還し、この世とあの世を連結するだろう。それは今此処の現在と、知られざる内面との邂逅を示す。あるいは正気ゆえに狂気をまとう少年ポール・デュダリス(彼こそは『そして、僕は恋をする』の…)のみが、実体化した不気味な狼(犬?)の影を見いだすだろう。
 映画の(記憶/亡霊)のみが、世界を定着/記述できる。

 登場人物はさまざまな悪口雑言を繰り返してはお互いを切り刻むかのようだ。だがその底流に流れる優しさはなんだろう。「優しさ」は安住を約束せず、諍いを増幅する装置。予定されたハッピーなどここにはなく、不幸と幸福のスパンで魅了する安易なエンタテインメントもあるわけではない。
 我々は、周到に張り巡らされた視線と移動する身体、そこにまつわる憶測と目論みに振り回されながら、ジェットコースターのような感覚で、息をつく間もなく繰り広げられる心理/身体劇に出会う。そこで自らを鏡のように反射させては、その終わりにおいてブラックアウトし、記憶を失うのだ。

 映画の出来事は映画のために、そして現実は現実に帰する。とはいえここでは映画的記憶は自らの内面に目に見えぬ形で留まり、日常を揺さぶる可能性が開かれる。


- 我々役者は影法師、皆様がたのお目がもし、お気に召さずばただ夢を見たと思ってお許しを。- ウィリアム・シェークスピア「夏の夜の夢」
http://a-christmas-story.jp/
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2010/11/14

かつてなく今後もない『誕生以後、』について  美術

イベント『誕生以後、』とは何だったのかを、当事者として考えていた。というより、断片的に頭に浮かんでいたことを書いてみたい

「自分の誕生日を記念する」という考えはもちろん動機としてあった。これは田中アスカさんのイベントにも触発されたものだ
一般に「誕生祝」というのは本人が自ら手をあげて人に強要するものではない。けれども、それを転倒して自らを見せ物化することには、なにがしかの魅力を感じた。とはいえ、そういうことだったかと言うと、なんだか違う気はする
確かに、当初はもう少しライブイベントのようなものを頭に描いていた。それはパーティに近いものだった。だが、実際は地味なトークイベントであり、そこに「祝」という気配はなるべくないように考えた。おそらくもう一つの「46歳」というテーマが、それを招来したのだと思う

半生というものがどこで区切りとなるのかはよくわからない。しかし人の一生を80年と考えると40年になる。だが実際、物事を意識して活動をはじめるのは18くらいからだから、そこからを「人生」と捉えると、80-17/2+17くらいが転換点となるのではないか(とまでは考えてなかったが)。その場合は48.5歳が半分になる
もう一つは、美術作家というものが、その人の活動がある程度メジャーな有名なものであれば別だけれども、そうでなく地道に活動されていた場合、少なくとも日本では、40代以降の業績や、活動というものにスポットが当てられることはない。いや、有名な人であっても、その過去の作品や業績が評価されることを前提に、それ以後の現在を評価するようにも感じられる

もちろん、だから自分に注目して欲しい!というイベントだったわけではない。そうではなく、たとえば営業職でも研究職でも、或いは警備や掃除などなんでもいいのだが、あらゆる職業の一つとして「美術家」というものを捉えることは、それがなんらかの経済活動に関与している以上、絶対に必要な事ではないにしろ有意義なことには思える。美術で食えるか食えないかはとにかく、そうした職業というもののもう一つの側面として、ある個人に可能な自己実現の発露(という言い方はいかにも新興宗教的だが)として必要な条件でもあるだろうし

いずれにしろ、選ぶと選ばざるとに関わらず、人はその職業や人生を決定づけられて生きる他なく、そこにいわゆる不公平も生じるのかもしれないが、多様性というものは概してそうした不公平を許容した中に存在する。つまり、美術が「純粋」で、いわゆる「成功」や「経済」原則から自由であると考えるのなら、極端に言えば何でもいい筈だ

しかし、もちろん自分は(美術が)何でもありだと考えたことはない。少なくとも、何でもいいと思って作品を作れる(作り続ける)ことなどできない筈だとは思っている。さらに考えれば、先のいわゆる現世的な成功の要件をまったく退けることも難しい。そうしたさまざまな条件の集合を退けた先に現れるなんでもない何かこそが、美術の決定的な出来事、或いは分割不可能な「物自体」であるとするならば、その表象としての「現れ」を取り扱うのが「芸術」であると考えることができるわけで、それはまさに、自らの存在についての不断の疑念は前提となる筈だ

で、あるならば、作品・作家はけして無関係なものではない。仮に「この私」が「作品」のために用意された器であったとしても、その器には選択されたなんらかの条件があった筈である。そのことについて、今現在から過去を振り返ることは、とりもなおさずここから先を考えることに他ならない。さらに、大海の一滴にも満たない「この(作品を創るという)私」という存在について考えることは、なんらかの意味で、美術の現在について捉え直すことに繋がっていく

だから、自分としては美術の「誕生以後」を、誰しもがそれぞれの「この私」の「誕生」以後、或いは「美術家としての誕生以後」に重ね書きし、その意識を更新し、新たな現在の構築に向けて、ほんの少し意識の見直しになる契機となればいいなと思ったわけで、当然それは自らにも向けられている

ではこれから自分がどうしたいのか、どうするのかが見えたかと言うと、むしろ逆で、もしかしたら美術を断念するかもしれないという気分に今はなっている。しかしでは、美術を断念するとはどういう意味なのか、それを明らかにするのは容易なことではないため、結果として、それを暴くために美術に関わらざるを得ないかもしれないとも思います

そうした気分はそんなに悪くはないのです

或いは美術展風に言えば、「新たなる総合に向けて」というより「新たなる解体に向けて」のイベントであったし、そこで解体されるのは誰しもの「この私」であり、同時に、意識された美術そのものであったかと言うことでしょう

「半生を振り返る」というイベントは人生において一回しか許されないし、もう二度とない。その意味では貴重な機会だったし、来て頂いた方にもある歴史に立ち会ってもらえた(共有された)とは思う。ある意味、この小さなこのイベントの持つ、宇宙的な時間における一回性を考えると、ほとんどのイベントにもはや行かなくてもいいかな?くらいの気持ちにはなっています(笑)
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タグ: 美術 アート art



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