トインビー博士の孫娘の手記
私は見た創価学会の実態を
故トインビー博士の孫娘・ポーリー女史からも、池田大作の実像を衝(つ)く手厳しい批判手記が発表された(1984年5月19日付・英紙『ガーディアン』紙に掲載)
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日本に着くまでの長い時間、私は祖父の死後に出版された本『生命の選択』 (※邦題『21世紀への対話』)を読みました。この本は祖父と、池田大作という日本の仏教指導者との対談を収録したものです。
この対談がなされた時期は、歴史家だった祖父アーノルド・トインビーが85歳の時で、脳出血で倒れる少し前でした。この本は、祖父の著作の中でも最も忘れ去られたような本で、性教育から始まって、汚染、戦争などに至るまで、とりとめもなく長々とした、二人のおしゃべりを収録したものです。
数ヶ月前、突然、池田氏のロンドンの代理人から電話があり、“祖父を偲び、また、祖父への感謝の気持ちを現わす意味で、私と夫を日本に招待したい”とのことでした。
祖父が死んでから8年も後だっただけに、私達はちょっといぶかしく思ったのですが、これが西洋人には理解のできない、日本人特有の“恩”とか“家族意識”とかいったものなのかもしれない、と思いました。
いろいろ考えても、その理由以外、まったく思いつかなかったのですが、この旅行が終わり近づく頃、その意味は次第に明らかになっていきました。西洋からの訪問者が、どちらかというと、めったに見られない、日本の別の一面を見ることができたのです。
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私達が東京に着くと、10人以上の人が出迎えてくれて、私と、びっくりしている12歳になる娘ミリーに、大きな花束が渡されました。
池田氏からの、長い荘厳な歓迎のメッセージが読まれた後、大きな黒いリムジンに乗せられました。この車は、電動で黒張りとなる窓に囲まれ、車内に敷いた絨毯(じゅうたん)には、池田氏の紋章が金色の糸で刺繍(ししゅう)されていました。
ホテルに着くまで、車は行列をなして進みましたが、その途中でも、無線を使って、不可解な招待主(※池田氏)からの新たなメッセージが届けられました。彼が私達に対する招待を、どれほど大がかりなものにしたかが、すぐにわかりました。
イギリスの創価学会組織の代表2人が、ロンドンからずっと私達にお伴してきて、ほとんどいつもそばに付いていただけでなく、通訳や運転手、そして雑用をしてくれる人までが付けられました。
ホテルの14階から、たくさんの滝と橋と鯉の庭園に目をみはっている私達のもとへ、「池田氏は“ご自宅のような気持ちでくつろいでください”と言われています」とか「池田氏は“あらゆるホテルのサービスと36のレストランをご利用いただきたい”と望んでいます」とかいう伝言が、次々と届きました。
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数日後、この不可解な招待主に会うまでの間に、私達は、池田氏と創価学会について、いろいろわかってきました。
なかでも、まず挙げておきたいことは、
この組織は、莫大な富と権力と政治力を持っている、ということです。
この団体について書かれたある本では、「この大規模な宗教的・政治運動を理解せずに、日本の戦後を語ることはできない」とまで言っています。
また、この組織は数々の出版物を出していますが、中には400万部を越える新聞(※聖教新聞)があります。
そして、日本において3番目に大きな抱えています。
会員数は1,000万人で、まだ増え続けています。7,000人の学生が学ぶ総合大学、美術館等を有しています。
池田氏は、1930年代に創価学会ができて以来、3代目の会長です。組織が飛躍的に大きくなり、力を持ちはじめたのは、彼の代からです。
彼は大森のノリ屋の息子で、あまり教育は受けていません。創価学会の青年の長であった32歳のときに、会長に就任しました。
そして、いわば伝統的社会からはみ出した人々を集め、組織的に強く団結させ、低中流階級を主とする運動としたのです。
昼夜、彼の側近に囲まれていた私達は、彼の名前が畏敬(いけい)の思いを込めて述べられているのを聞きました。
引退したビジネスマンである英国組織の長は、「池田氏は、自らを人間革命した方だ」と語っていました。
他の人々は、彼の書物、心、詩、精神、そして彼の撮った写真さえも挙げて、彼を“偉大な存在である”と証言しました。
なお、後で、彼の写真の撮り方を見ることができましたが、
彼は、側近がフィルム入りのカメラを渡すと、腕を伸ばしてカメラを構え、ファインダーも覗かないまま、適当にシャッターを切っていくのです。
その撮り方について質問をすると、側近は「先生は、写真を目で撮るのではなく、心で撮るんですよ」とささやきました。
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とうとう彼と会う夜がやってきました。
大きな黒いリムジンで、豪華な本部に入っていきました。入り口はカメラのライトで昼間のように明るくなり、深くおじぎをしたままの側近や信奉者に囲まれて、池田夫妻が立っていました。
この予想もしなかった出迎えぶりに、私達は、目がくらみ、ドギモを抜かれました。
私達は、彼のもとに導かれ、小さな丸々と太った手と握手しました。そこに立っていた彼は、背の低い、太った男で、髪の毛は油で固められ、上等なスーツを着ていました。
フラッシュがたかれ、映画のカメラが近づき、私達は大勢の人々とともに、白いドレスを着た女性がおじぎをしている列の間を通り、とてつもなく大きな広間へと入って行きました。
その大広間には、大きな白いアームチェアーが並べられており、私達は、上座にある、王座のようなイスへと導かれました。
イスは私達夫妻に1席ずつ、そして池田氏に一つです。
池田氏は英語を話せないので、私達の後ろには、世界中どこへでも彼のお伴をする、若くて美しい通訳が座りました。
彼女はマイクの前に座り、私達の一言一言を全て、並んで座っている側近や信奉者達に聞き取れるようにしていました。
私達は、次から次へと繰り出される慇懃(いんぎん)な応対を受けながら、畏敬と驚きで、唖然(あぜん)としてしまいました。
池田氏は「今夜はお家にいるのと同じように、まったくリラックスした気持ちでいてください」とか「この特別な機会を楽しんでください」などと言いましたが、私達は、自宅でのくつろぎなどとは、まったく正反対の精神状態におかれていました。
私達は、約30分間、大衆の面前で、シャンパンをグラスの中で揺すり、スモークサーモンを食べながら、ロンドンと東京の天気について、また都市や風景についてなど、とにかくどうしようもないくらい、たわいのない会話をしました。
その間、広間に居並ぶ側近達は、厳粛にうなづくのでした
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池田氏の話し方は、傲慢(ごうまん)かつ他に恐怖心を与えるもので、彼が話を進め、他の人がそれにうなづき従う、といったものでした。
時として、彼が予期しない、一般的でない意見が述べられると、途端に彼の目には厳しい反応が現われ、警告にも似た冷たさが浮かぶのです。
私達は、形だけの会話をしながら、
この男を観察いたしました。彼は、頭の先からハンドメイドの靴のつま先まで、俗人そのものであり、崇高さのひとカケラも見えませんでした。
「彼の職業が何か。当ててみろ」と言われても、“宗教家”と答えられる人は、ほとんどいないでしょう。
私は、多くの有力者と会ったことがあります。それは、首相をはじめ、さまざまな分野の指導者達ですが、しかし、池田氏のように、絶対的権力者の雰囲気をにじみ出させた人物と会ったことはありませんでした。
彼は、おそらく長年にわたり、あらゆる自分の気まぐれを押し通し、すべての命令に従わせ、そして、それに対する反論や軋轢(あつれき)に触れないよう、守られてきた人間なのでありましょう。
私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かに、私は体の芯までゾッとさせられました。
夕食は苦しい体験でした。私達は、伝統的な日本間に通されました。畳に座布団を敷き、池田氏を中心にテーブルを囲みました。
テーブルの中央には料理人が入り、熱い油の鍋から天ぷらを揚げてくれるのです。
「あまり堅苦しい話は、今夜は止めにして、ともかく楽しみましょう」と、池田氏は命令口調で言いました。
私達は、耐えがたい、くだらない会話を、まだ続けなければならないのかと、沈痛な気分になりました。

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