2006/2/24
産むか、産まないか、
答えが出せないまま私は焦っていた。
彼は相変わらず、
私が産むならできるだけのサポートはすると言う。
結婚だけは、できない。と。
昨日、彼と二人で
“女性の為の妊娠サポートセンター”へ出掛けた。
産むとしても、産まないにしても
医者を薦めてくれるという施設。
そこは38丁目にあり、
1階の薄暗くて小さなドアを開け、
狭くて鉄格子の付いた暗いエレベーターに乗って3階へあがる。
白い床と白い壁に囲まれた4畳半ほどの小部屋が数部屋あり、
その一部屋に通された。
「赤ちゃんをおろす事を考えていらっしゃるのでしたら、
当センターで医師を紹介します。
待っている間このビデオを見ていてください。」
なんのビデオだろう、と思いながら、
憂鬱な気分でビデオを見始める。
そこに映されたのは、おろされた赤ちゃんの遺体。
「3週間でお腹の赤ちゃんはこれだけ成長しています。」
「3ヶ月で体のこの部分がはっきりと形成されます。」
このビデオって。。。
私の憂鬱に追い討ちをかけるように、
堕ろされた胎児の映像がながれる。
私はこの赤ちゃんをおろしたくて来たんじゃない。
私は、どうしていいかわからなくて、
助けが欲しくてここに来たのに
彼らはそれをわかっているんだろうか。。。
産むお金も長期滞在ビザも無い外国人を
助けてくれる医師がどこかにいるのなら教えて欲しいと、
わらにもすがる思いでいるのに
そんなことは彼らにはどうでも良くて、ただ
とにかく“おろすな”と言ってるようにしか思えない。。
でも私には怒りよりも恐怖がこみ上げていた。
「帰るぞ」
テリーが曇った表情で立ち上がり、私の手をつかんだ。
部屋を出るとさっきビデオを持ってきた女性が
私達を見てにこやかに言った。
「あら、気が変ったの?」
テリーは何も言わずに怒りを抑えながら
エレベーターのボタンを押した。
私は暗くて狭いエレベーターの中で、泣いた。
おろされた胎児の映像が、頭から離れなかった。
「あんな所、二度と行かない。」
彼が私を強く抱きしめた。

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2006/2/15
95年7月下旬続き>
妊娠がわかった日の夜、
テリーに早速話すことにした。
日本にいる両親にはとてもじゃないけど話せない。
彼はなんて言うだろう。
喜んでくれるだろうか。。
産むなと言うだろうか。。。
不安でいっぱいになる。
午後8時。
彼がバイトから戻って来る時間。
1分がとても長く感じる。
私は産みたいと思う。
でも、ひとりではできない。
家族も親戚もいないニューヨークで、
ひとりでは産めない。
日本人の産婦人科ドクターなんて、いるんだろうか。
帝王切開します、って、
専門英語で急に言われたら絶対わかる訳ない。。
8時19分。。
もう丸一日待っているような苦痛。
22分、やっと彼が戻って来る。
「Hello」
「おかえり。ご飯食べた?」
「うん。君は?」
そういえば、まだ食べてない。
「少し食べた。そんなにお腹空いてなくて。」
「どうかした?」
「。。。。うん。妊娠したみたい。」
彼は驚いた顔をした。
「ほんとに?」
信じられない、と言う様な顔だけど、嫌そうな顔じゃない。
「ワ〜オ。ここに俺の子がいるの?」
私のお腹に触れながら、ただただ驚いている。
「産んでもいいの?」
「君が産みたいなら、俺にできる限りのサポートはするよ。」
「サポート?じゃあ、結婚はしないってこと?」
「。。。。結婚はまだ、心の準備が。。。。」
子供を産めば私はシングルマザーってことか。
後になって“君が決めて産んだんだから”とか、
“俺は産めとは言ってない”とか
そう言うシーンを映画でよく見る。
結婚してなければ責任逃れだってできる。
産んだとしても、
もし職場でワーキングビザが取れなかったら
私は日本に帰国しなくちゃいけない。
子供が父親に会えないじゃない。。
こんな中途半端な状況で、
“産みたいなら産みなよ”なんて。。酷。
そりゃ、おろせって言われるよりいいけど、
「自分で決めてよ。できることはするけど、
できないことはできないよ」
って、突き放しているのと同じ。
これ以上あなたに相談もできないじゃない。。
「私、もうすぐ正社員になれるかもしれないから、
そしたら会社の保険が出産にも使えるかどうか確認してみる。
保険が使えないんだったら、とても産めないと思うし。。」
でも普通、妊娠してから加入して使える保険って無いはず。
アメリカでの出産は、
出産後1〜3日で帰宅させられるのに
保険が無い場合は分娩だけでも
安くて40万円は自己負担だと聞いた。
分娩までの診療費、生まれてからの診療費、
ミルク代、おむつ代、、、考えるだけで気が遠くなる。
予定外の妊娠って、後から“あの時避妊するべきだった”とか、
“彼に避妊してね、ってどうして言えなかったんだろう”とか、
“彼が避妊してくれてたら、こんなことには。。”
とか、色々後悔するもの。
取返しがつかなくて、厳しい選択をしなくちゃいけない出来事。
こんなに好きな人の子供だから、産みたい。
だけど、不安ばかりが増していく―。
ちょっと古い映画ですが、昨日も再放送してたので。。
妊娠と中絶の狭間で苦悩する3人の女性を描いた映画
「スリー・ウィメン〜If these wall could talk」1996年米。
1952年、74年、96年、と3つの妊娠ストーリーがあります。
結構重い映画で、人それぞれの考え方の違いに考えさせられます。
私が初めて妊娠した95年、
中絶反対派のテロ行動がよくニュースに流れていました。
1993年 フロリダ州の中絶医が射殺される
1998年 アラバマ州で中絶クリニックが爆破され2人死傷
この他にも1993年から起きた6件の事件で
1999年までに7人の中絶医、または関係者が殺された。
これはプロライフという中絶反対派の過激派グループによって行われた犯行。
彼らは強姦や近親相姦によって妊娠してしまった女性だけでなく、
奇形児が生まれてくることが予想されていても中絶に反対する。
プロライフの活動が活発になり、中絶を行うことをやめる医院が急増。
1999年には全米の8割の郡で中絶を行う医院が無くなったそうです。
妊娠中絶問題はアメリカ合衆国の根本にあるキリスト教の
概念に基づいて反対されています。
どんな中絶であろうと、どんなに望まれない胎児であろうと
殺人は殺人と見なすのだとか。
でも、本人達(一部の過激派)が殺人をしてしまっていては本末転倒。
中絶は殺人で、中絶関係者を殺すのは正義だなんて、間違ってる。
それでは宗教からもかけ離れたテロ行為でしかない。
逆に中絶賛成派のプロチョイスというグループがある。
女性の人権のため、幸せな家族計画のための中絶を完全に支援している。
代表的なプロチョイス活動家にクリントン元大統領があげられる。
議員には中絶反対派が多く、市民には中絶支援派が多いそうです。
NYの地下鉄に、
「男性ばかりの国会で多数決したら中絶反対派が多いのは当たり前。
女性や妊婦の気持ちがわかるはずが無い男性議員に、
女性の権利を 取り上げられてはならない。」
とかいうポスターが貼られていたのを覚えています。
近年、アメリカに留学する日本人が簡単に中絶を希望するという
問題も近年クローズアップされてきているのだとか。
しかし、遠めには簡単に中絶を希望しているように見えても、
女性にはとても重い問題であり、
二度としたくない辛い経験であると私は思います。

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