その方とは初対面ではなくある方を通じて面識がありました。そして、再三にわたり僕のこのブログ『赤いベレー帽』の誹謗中傷にあたる記事を書き、病気や障害を抱える人間を突き放しては罵倒するといった行為を繰り返している方でした。誰かを激しく憎み罵倒するという行為は、いつだってその方の心の奥のコンプレックスを指し示します。自分の中の弱さが、他人に向けての罵倒といった形で現れ、弱さを覆い隠すのです。
僕自身の力不足もあって、その方には僕という人間をどうしても最後まで信用していただけず…心からのメッセージも【出会い系広告の誘い】などと捉えられてしまいました。
それもまた、その方なりの人生。それもよろしいでしょう。今は重大な自分自身の欠陥に目をつぶって逃げても、いつかは必ず泥をかぶらなければならない時がやって来ます。今はきっと…まだ早すぎたのです。
人生体験の絶対量とそこから学ぶその人間自体の吸収力の差によって立ち位置があまりに異なる場合、波長が違い過ぎて会話自体が成立しないということがよくあります。その方との一件は、僕にあらためてそれを教えてくださいました。とても良い勉強をさせていただき、「批判を、そして罵りを、ありがとう」と言いたいです。立ち位置の違う今、その方にこれ以上関わることは控えさせていただこうと思いますが、陰ながら同じ男して、そして何かの縁があってこうしてブログで知り合えて、本当に感謝しております。
自分の一番の味方は、自分です。しかし、自分の一番の敵もまた、自分自身です。こんな時代に生きる人間は、ある意味、みんなが被害者です。しかし、被害者意識をひたすらつのらせていても仕方がないので…こんな時代に生きること自体が、神様からいただいた課題。大いなるチャレンジなのだと前向きに考えるべきではないでしょうか?
最後に、安楽死の問題について僕なりの考えをお話したいと思います。
病気や障害に苦しみ抜いた末に、病院のベッドで体にたくさん管を通してなんとか生きてらっしゃるような方を見れば、誰だって心が痛みます。他ならぬ僕だってそうですし、看護補助員という仕事をさせていただいていますので、日々そういった患者さんにじかに触れる機会も多いのです。
こういった場合、「その方は既に生きながらにして死んだも同然だ。早く楽にしてあげたほうがいい」と安楽死を考える方がいらっしゃいますが、果たしてそれは正しいのでしょうか?
あの世というものを信じる僕の立場からお話させていただきますと…どんなに苦しくても、その苦しみこそがその方の学びならば、周りの第三者がそれを奪ってはいけないと思うのです。病気、障害、寝たきり。それらは見た目、大変に悲惨であり不幸な出来事に見えることでしょう。そして、だからこそ「可哀想だから楽にしてあげたい!」と安楽死を選びます。しかしそれは、あくまでも第三者である周りの方々の主観に過ぎません。亡くなられた方の死に顔を見て「安らかな死に顔だった」などと言うのも、厳しい言い方になるかもしれませんが、周りの勝手な主観です。その方自身がそれで本当に幸せだったかどうかは、ご本人…それも、その方の肉体に宿る心ではなく、魂にしかわかりません。
ならば、他ならぬそのご本人が安楽死を選び「楽になりたい!殺してくれ!」とおっしゃった場合はどうでしょうか?僕は、それでもなお安楽死はいけないと考えます。
自殺も安楽死も、僕自身がそれらに激しく違和感を感じるのは、根底にこの「楽になりたい」という考え方があるからです。我々の人生は、厳しい人生です。厳しいことを体験するためにこそ、生まれてきた意味があるのです。厳しい体験により魂が磨きに磨かれて、輝く綺麗な心になってあの世へ逝く…。僕はこれこそが人生の目的であり、それ以外は全てそこに辿り着くための枝葉に過ぎないと考えています。
これは大変にストイックな考え方ですので、「とてもついていけない」と感じる方も多いことでしょう。だからこそ先ほども申しましたように、無理強いはしません。立ち位置が違い過ぎる場合、理解できないのが当たり前。その方はその方なりのスピードでゆっくりと自分なりの学びの道を歩いていただけば、それで良いのです。しかしその場合も、僕たちが常に問われているのは「楽したい」と怠けた考え方に陥ってはいないかどうか…その一点に尽きると思います。
どんな行動をとるにせよ、いつも大切なのはその動機です。【生きる】ということはすなわち、【動機を問われること】に他なりません。
自殺者や安楽死を選んだ方は、その点において間違いをおかしていると言わざるを得ません。
亡くなられた方々も、肉体が消滅するだけで魂まで消滅するわけではありません。いや、魂は永遠に生き続け、あなたを見守ってくださっています。
苦しい時、悲しい時…誰かに見守られていると感じた体験はありませんか?
亡くなられた方が、今もなおあなたのそばにそっと寄り添って、あなたの幸せを人知れず祈ってくださっていると感じたことはありませんか?…
神様からいただいた体をあの世へお返しする時、できることならなるべく綺麗な体でお返ししたい。磨きに磨いたピカピカの魂で、誰かをそっと見守れる自分になりたい。
僕は、そう思う自分になれました。今はもう目の前にいない方々からの魂の心のこもったメッセージが、僕を大きく成長させ、そんな風に変えてくれました。
悲しみに、どうか負けないでください。
悲しみに負けて、心を閉ざし、過去に縛りつけられた場所にとどまることは、今この世にいない誰かを悲しませます…。
悲しみを喜びとし、精一杯生きたその方からのメッセージを、こちらも精一杯の思いで受け取らせていただきましょう…。
悲しみは、きっと…喜びなのです!!

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