大阪府富田林市で中一女子がいじめを苦にして飛び降り自殺しました。
埼玉県本庄市で中三男子が同級生から金銭を要求されて納屋で首吊り自殺しました。
北九州市で小学校の校長が市教委への“いじめ隠し”が発覚した翌日、自殺しました。
秋田県大仙市の農業用水路で4歳児が死亡していた事件で、児童の母親と交際中の男の二人が逮捕されました。
どこかの寝ぼけた首相が言った“美しい国”とは名ばかりの、どうしようもない日本。表面を取り繕うことばかりに必死になっている間に、内面から取り返しのつかないほど腐ってしまった情けない国。
愚かな偉い人。愚かな偉くない人。頼りがいのない大人。可愛いげのない子供と可哀想な子供…。
皆が皆、小さな自己保身のために他人を生け贄にしようとします…。愛せない自分をみかえらず、他人に愛することを強要して、それが実現しないとわかると、まるでゴミきれを処分するように殺します…。
愚かなこうもり。僕たちが罪を犯す代わりとなって罪を犯してくれる、愛すべきお馬鹿さんたち。
馬鹿には馬鹿なりの歩みの道があります。そう…神様はちゃんとそれを用意してくださっています。
なんと慈悲深いことでしょう。
なんと有り難いことでしょう。
いくら感謝しても、感謝が足りることなどあり得ない。僕たち人間は皆、落ちこぼれ。天から堕ちた、出来損ないの天使です。汚くて、醜くて、どうしようもなくて…だからこそ、儚くも美しい…。
昨日、言葉もろくに話せない不自由な母が、コツコツ貯めたなけなしの一万円を、僕たち夫婦にくれました。ヨレヨレの汚い文字で書かれたしわくちゃの手紙と一緒に。
「あなたたち夫婦には本当に感謝している。これで美味しいものでも食べてください。」
僕と妻は、そんな一万円をそれぞれ五千円ずつ分けていただきました。妻は、それをみんなの食費に。そして僕は、必要な日用品と、そして二人の新しい携帯につけるストラップを買わせていただくことにしました。
今日は仕事はお休みなので、近くのドン・キホーテまで自転車を走らせ、天然石のストラップとジッポーライターの芯と濡れティッシュと芳香剤を購入し、お昼を食べてから公園に立ち寄りました。
カラッと晴れた気持ちの良い青空。今日もどこかの街で誰かがいじめられ、誰かが死んでゆくというのに…空はまるでそんなことには無頓着で…残酷なまでに爽やかな光を注いでくれます。
そう…いつだって光はそこにあるはずなのに…どうして僕たちはそれを見失っては、暗い殻の中にまた閉じ込もろうとするのでしょうか?
アズテック・カメラというUKのギターロック・バンドでありロディ・フレイムというアーティストの個人プロジェクトに“SAFE IN SORROW”という歌があります。悲しい思い出とともに心の殻に閉じ込もってしまった少女に「その高く積み上げたレンガを崩して僕が救い出してあげたい」と優しく囁く温かい歌です。
人はアンビバレンツな存在。「幸せになりたい」と望みながらも、悲しみの中にじっとうずくまるそんな場所が、あんがい心地よくて安心(SAFE IN SORROW)できたりもするもの。何故ならそこから外へ出ない限りは、今まで以上に傷つくことはないから…。深く傷ついた過去のトラウマが、その人を不安と恐怖のどん底に叩き落とし、過去という時間軸に縛りつけるから、未来に向かって歩き出すことができないのです。
しかし失礼を承知の上で申し上げれば、その過去のトラウマは、そんなに大したトラウマだったのでしょうか?
たとえば、誰かに酷く裏切られる。あるいは、信頼した親友や恋人が死ぬ。
それは確かに悲しい出来事でしょう。海ができるほどの涙を流し、耐えきれない悲しみに自殺を試みることもあるかもしれません。
そう…かつての僕も、そんな仲間の一人でした。小さな頃から自由を奪われた管理教育を両親に強いられ顔面神経痛になった僕は、その悲しみを受け止めてくれた婚約者にあろうことか約束を破られ、見知らぬ男と一緒に逃げられました。信頼していた大学の恩師は癌で突然この世を去りました。重い心の病気から一時的に性的不能者となり、気管支を悪くして肺炎寸前までになり、自暴自棄の生活のなか莫大な借金を抱え、仕事も東京での生活も全てを台無しにしました。そして雨の降る夜に、高いビルの上から飛び降り自殺未遂…。
しかしながら、今こうして生き長らえて青空の下、公園のベンチに腰かけ、20年前の元婚約者と二人で聴いていた同じアズテック・カメラを、レコードに針を落として聴いた当時とはすっかり様変わりして、携帯にダウンロードして愉しんでいる僕は、よほど強い男なのでしょうか?
いや、僕は特別な人間などではありません。ありふれた、弱い男です。弱いからこそ、そのトラウマを克服するのに、こんなに長い時間がかかってしまいました…。
ならばどうして僕は、平気でいられるのでしょうか?それは、等身大の自分を自分で受け入れたからです。どんなに辛い出来事があったとしても、他人や周りの環境のせいにせず、自己責任のもとに立ち上がるほかないと気づいたからです。
けっきょく僕が体験したことなどは、世の中にいくらでもある“よくあること”に過ぎません。何も僕だけが特別に悲しい思いをしたわけではなく、凡庸な人間の凡庸な人生として、まっとうなハードルを自分なりに精一杯乗り越えてきただけなのです。
だから、今まさに暗い殻の中に閉じこもり、「私だけが何故こんなに悲しく、生きづらいのだろう?」と絶望している誰かに向かって僕は言いたいのです。「君のも大したことないね…僕と同じように。」と。
そう…実際、僕たちは“大したことない”のです。“大したことない”のに“大した自分”になろうとするから、それも一足飛びにそうなろうとするから、つまづいてはまた転んでしまうのです。
転ぶのは、あなたが悪いわけではないのです。ただ自分で設定したハードルが高すぎただけのこと。高さを今の自分に合った場所まで下げれば、必ずハードルをひとつ越えられます。そしてハードルは…最初のひとつを越えられない限りは、永遠にひとつも越えることができないのです。
最愛の恋人と悲しい別れを体験し、心身の不調に苦しみ抜いて、僕はとうとう丸裸になりました。それは憎しみや恨み、あるいは妬みなど、無駄な枝葉のないシンプルな自分です。美しくない愚かな日本の片隅の薄汚れたベンチで、それでも笑っていられる自分です。
暗闇の中、ずっと僕が探し求めていた光。
それは、他ならぬ自分自身でした。
笑う男は今日も、20年前のあの日と変わらぬロディ・フレイムのギターの音色とともに、ゆっくりゆっくりと…歩んでいます。

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