日曜日の白昼、東京・秋葉原で起きた残虐極まりない無差別大量殺人。この事件の犯人(25歳男・派遣会社員)について、ある著名人がブログでこんなことを書いているのを読んだ。
「怖いなあ。完全な無差別・衝動的殺人である。警察は犯人に動機を追及しているそうだが、具体的な動機は見えてこないだろう。本人からすると“やってしまった”のだ。結果の方が先にある。たぶん、日常生活者としては普通の人である。それは都内のマンションでとなりの女性を帰宅時に襲って殺人を犯した男と同じだ。それにしても静岡でレンタカー(トラック)を借りて、わざわざ東京まで来ているのだ。それも金曜日は仕事を無断欠勤し、土曜と日曜は休み。犯行はその日曜日だった。東京の派遣会社に登録し、静岡にある自動車の部品会社を紹介された。ウワー、こういう言い方をするとよくないが、希望が見えてこない人生だ。人間にとって何が最も重要なことかといったら、どんなささいなことでもいい、小さなことでもいい、希望である。もし自分の頭の中、想像力の中でその希望という概念がゼロだとわかってしまったら、人は一体どうなるのだろうか。自己の存在自体が絶望的になる。希望ゼロになってしまった自分を破壊、消滅させようという衝動にかられる。まったく不謹慎な発言になるが、あの通り魔殺人は犯人にとって人生の最後の一花(ひとはな)を咲か
せる意味もあった。人間として自分が“生きる部品”になっていることに“さよなら”するためである。ホント、この日本は完全に病んでいる。」
このブログには、正しいことも書いてある。しかし、著しく間違ったことも同時に書いてあると僕は強く感じる。
正しいと思われるのは、犯人がおそらく「日常生活者としては普通の人」であるだろうと想定している点。これまでの時代とは異なり、現代日本における凶悪犯罪の多くは“如何にもな”凶悪犯ではなくて、普段真面目な人間がいきなり暴発するパターンが顕著である。いわば覆面犯罪者。派遣会社の不正や悪事についても、既にさんざん言われていることであり、確かに小泉政権以降の日本の社会は、来るところまで来ていると言わざるを得ない。それも正しい。
しかし、僕がこのブログに強烈な違和感を感じたのは、この人が「派遣会社に登録し、静岡にある自動車の部品会社を紹介された」という犯人の境遇を一方的に「希望が見えてこない人生」と断言していることだった。
「人間にとって何が最も重要なことかといったら、どんなささいなことでもいい、小さなことでもいい、希望である」と、彼は言う。そして犯人は、人間として自分が“生きる部品”になっていることに“さよなら”し「人生の最後の一花(ひとはな)を咲かせる」ために大量殺人をおかす意味があったのだと説明する。この意見って今の時代に生きる人々には、たぶん共感する人が多いんだろうなあ…。そしてそこにこそ今の日本社会の深い闇、僕がアホらしくなってブログをやりたくなくなった理由もまた、あるのだ。
だいたいなんで「派遣会社に登録し、静岡にある自動車の部品会社を紹介された」ことが「希望が見えてこない人生」と断定できるのだ?しかも、アカの他人が。派遣会社は確かに様々な問題点を抱えているが、そんな中でも堪えるところは堪えながら、それなりに上手く立ち回って幸せにやっている人だっているではないか?
「人間にとって何が最も重要なことかといったら、どんなささいなことでもいい、小さなことでもいい、希望である」とこの人は言うが、その「希望」というヤツは、そんなに大それたものなのか?派遣会社の社員として働いていては、けっして見いだせないような類いのものなのか?
全ては「物質至上主義」の弊害である。お金をたくさん貰えるから幸せ。仕事が楽だから幸せ。彼女や彼氏ができたから幸せ。
こういった風に、何かはっきりした形でご褒美めいたものがないと「不幸せ」だと感じるのは、老若男女問わず現代日本人の大きな、そして情けない特徴である。
齢60歳を越えたこの著名人が、その歳でいまだにこういった幼稚極まりない考え方に支配されていること。そしてそんな幼稚な考え方を公の場で、まるで自分が大した発見でもしたかのように意気揚々と語っていたことに、僕は心底愕然とした…。
社会は、確かに悪い。会社も、もちろん悪いだろう。しかしそこで抱えた不平不満を他人にぶつけ、あろうことか無差別殺人を犯すのは、明らかに本人が悪い。
社会の構造を分析しては犯人の気持ちをあっさりわかったように納得する人は文化人・一般人問わず本当に多いが、わかったようなことを言う連中そのものが自分で自覚できないくらいに病んでしまっているから始末に負えない。納得したり、わかったりする必要のないことも世の中にはあるのだ。
今まで自分の身に起こった出来事を一つ一つ振り返ってみると、この人の意見では、僕こそが犯罪者にならなくちゃおかしいだろう(苦笑)。しかし実際は、そうではない。不平不満を言うよりも家族の幸せを守るために自ら立ち上がり、そんなけっして裕福とは言えない忙しい生活の中から「喜び」を見つけ、日々を「幸せ」に生きている人間が、ここに実在するではないか!
犯罪者と僕。その違いは何なのか?それは「価値観(理性&知性)」と「依存の有無」である。
「自分の頭の中、想像力の中で希望という概念がゼロだとわかってしまったら、人は自己の存在自体が絶望的になる」とこの人は言うが、まるで経験の足りない小学生のような意見だ。
「希望」という概念に、限界など存在しない。なぜなら「希望」とは外からやって来ることを期待するものではなくて、自らの「想像力」で、自分の中に「生み出す」ものだからだ。
この「想像する力」、「生み出す力」が圧倒的に欠落した人間が今、増えている。ちょっと自分なりに努力して思うような結果が得られないと、まるでちゃぶ台をひっくり返すようにキレる人々が増えている。
平和な国よりもむしろ、日々紛争が絶えない戦地の国々のほうが、人々の絆が深いということがある。いつ命を落とすかもしれない極限状態の中でこそ人は、生きていることの大切さ、今日も生きていられること自体が幸せなのだという真実を実感するからだ。
仕事が気に食わない。恋人にふられた。学校でイジメられた。だから、いったい何なのだ?そんな程度でゼロになってしまうアンタの「希望」って、いったい何なのだ!?
たとえ自分を「破壊、消滅」させたところで、世の中は大きくは変わらない。ならば、何があっても変わらない世界で“自分を変えながら”生き抜いていこうではないか!
価値観を身につければ、くだらない衝動は抑えられる。
他人や職場や学校や社会にばかり過剰な期待をしては裏切られたと感じてキレる。それは一言で言えば「逆恨み」である。今の日本人は、この「逆恨み」という感情にすっかり支配されてしまっている。
職場が気に食わなければ、辞めればいいだけだ。恋人と上手くゆかなければ、自分を磨き、新しいもっと素敵な人と出会えばいい。問題だらけの社会の中で生きることは確かに息が詰まるが、ならば息抜きの方法を考えればいい。
このように考える僕には「ハマる」とか「煮詰まる」といったことが、よくわからない。結局ハマってしまったり煮詰まってしまったりする人々は皆、自分の勝手な都合ばかりを無理やり押し通そうとするから、ハマるし煮詰まるのだ。
しっかりしろよ日本人。大人も子供も、何やってんだよ全く!
こうしてメッセージを送り続けても、素直に耳を傾ける人と、そうではない人がいる。それぞれの人生だから、僕も必要以上にでしゃばりはしない。
しかし、一つだけ言っておく。自分の不平不満を他人にぶつけるな!
僕はこれからは、こちらから誰かに踏み込むということは、しない。しかし自ら連絡してくる人には、これまで通り親身になって相談にのる。でも、はっきり言っておく。人を信用し、話に素直に耳を傾けなければ、状況は改善しない。絶対に、しない。
今回の事件を引き起こした加藤智大容疑者は事件の直前、携帯サイトの掲示板に「秋葉原で人を殺します」というタイトルで書き込みを残していたという。
道中、使う予定だった道路が封鎖中との情報を得た容疑者は、午前6時10分にこんな書き込みを入れていた。
「使う予定の道路が封鎖中とか。やっぱり、全てが俺の邪魔をする。」
何が「全てが俺の邪魔をする」だよ?異常な被害妄想、究極の自己中、私(わたし)至上主義だ!
サバイバル・ナイフで切り裂くならば、難しい社会の中で喘ぎもがきながら懸命にそれぞれの人生を生きている他人ではなくて、自己愛にとらわれ他人を思いやることができずに無い物ねだりばかりを繰り返す、怠け者で小心者でくだらない自分の心を切り裂け!くだらない自分の自我を跡形もなくメッタ刺しに切り裂いて、ドロドロと流れる汚い血の中、明日から綺麗に生まれ変われ!
無抵抗な弱い人々を武器で一方的に切り裂くのとはワケが違うぞ。何十年もこびりついた「弱い自分」というしつこい錆びは、切っても切っても蘇ってくるぞ。手ごわい相手だ。だからこそ、闘う価値がある。命懸けで立ち向かう意味がある。
それができないヤツは最低限、他人に迷惑をかけるな。くだらない「私(わたし)ルール」や「俺ルール」で、真っ当な他人を巻き添えにするな。
被害者の中には、若い女性も一人いた。東京芸術大学音楽学部の4年生だった武藤舞さん。音楽環境創造科に在籍し、イベントやコンサートの企画会社を目指して複数の会社から内定をもらった矢先の出来事だったらしい。新聞を読んでいて僕は、あまりの無念に涙がこぼれ、頭痛がして気分が悪くなってしまった。
無期懲役など、コイツには生ぬるい。死刑でも、まだ足りない…。
死ね。死ね、加藤。
そして未来永劫…人間として働かせるべき真っ当な想像力を放棄して自己愛に負けたクズは、
二度と生まれ変わってくるな!!!

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