父がまた泣いた。
セールも今のところ好調で、しばらく離れていた古いお客さんも戻ってきている。「閉店」というショッキングなキーワードを旗印にしたことがどうやら功を奏したようだ。
「このまま本当に閉店してしまうの?」
淋しそうな表情でこんな質問をされるお客さんが多かった。「閉店」と聞いて、慌てて飛んできた常連のお客さんもいた。
もちろん、僕としてはこのまま「閉店」するつもりは最初からない。今回の閉店セールは、あくまでも在庫一掃が目的。そのためには「閉店」というショッキングなキーワードも、ある意味存分に利用させてもらうつもりだ。
「閉店」と聞いて慌ててやって来てくれたお客さんには「実は母が倒れて大変な状況になったので、在庫を一掃して、また再スタートするつもりなんです。これからもよろしくお願いしますね」と明るく伝えている。
そうすることによってお客さんと会話を持つことができ、一緒に珈琲の一杯でも飲んでいただける。お目当ての商品を購入した後、そうやってしばらく店にいてもらうことで、お客さんは別の商品にも目が行く。実際、こうして2点3点と商品を買っていってくださるお客さんがいらっしゃった。
値段は、仕立て用の生地が一律一万円。その他は全て半額以下。
昨日は持ち合わせが八千円しかないお婆ちゃんから「どうしても二千円まけて欲しい」と言われた。もともと三万五千円する商品だったので父は「これでギリギリなんですよぉ〜」と二の足を踏んだが、僕が「よし!それなら八千円にまけときましょ!でもね、お婆ちゃん!今日だけのサービスやで!毎回こんなんしてたら商売あがったりやわ!」と言って笑わせた。父には後で「八千円でもええやないの、この際。現金になるんやから背に腹かえられへんわ」と小声で耳打ちした。父は「任せるわ…」と言った。
手応えは、ある。
今のやり方でしばらく店を続けていって、めぼしい商品が売れてしまい、売れない商品だけが残ったら、今度はさらに値下げしてさばく。どんどん薄利多売に切り替えて、在庫を片づける。
妹夫婦の精一杯の協力もあり、とりあえず来月の家賃と生活費ぐらいはなんとかなりそうだから、少しは余裕ができた。まさに文字通りの自転車操業ではあるが、今は仕方がない。まずは目先のことを一つ一つ解決しながら、少しずつでも体力を蓄える時期だ。僕は絶対にあきらめない。
朝10時から夕方5時まで営業して、その頃ざわりんもパートから帰って来て、父は上機嫌だった。ときおり笑顔すら見せながら「ありがとう。アンタらには、ホンマに感謝してるで…」と言ってくれた。
しかし好事魔多し。父は病気である。
夕方から夜にかけて、父はいつも具合が悪くなる。どんなに調子が良い日でも、明るい日差しが途絶える夜の闇の中で、父の不安は膨れ上がってしまう。
夕食を終えて、ざわりんと談笑していた時、父は僕たちの部屋にやって来た。
「どうしたの?何か不安になったのかな?」と訊くと、父は今にも泣き出しそうな暗い顔で「司法書士に払う金がないのや…」と答えた。「いくら要るの?」と僕が訊ねると「二万八千円。」と申し訳なさそうに答える父。
「二万八千円ぐらいやったら、どうっちゅうことないやん?どうせ払わなアカンものは払わなアカンのやし、きっちり払おうや」と僕が言うと父はこう言った。
「ワシは、アンタらに申し訳ないんや…。二万八千円も払ってしもたら、今日せっかく売ったぶんがチャラになってしまう。ワシは、申し訳なくて申し訳なくて…。」
僕は泣き出しそうな父に、笑顔で言った。「そんなん気にせんでええよ。家族なんやから、僕らの生活費は多少切り詰めてでもやっていける。まずは、払わなアカンもん払おうや。これから毎日店をやっていくうちに、坊主(関西弁で売上がゼロのこと)の日もあることやろ。でもそんな時、メゲたらアカンよ、お父ちゃん。アカン時はアカン。でも、また売れる時もあるから、モチベーションを下げんことが大事や。売り上げにいちいち一喜一憂しとったら、体がもたん!そやから、あんまり細かいこと気にせんと、僕らに任せとき!」
父は僕の手を握りしめて、また「ありがとう」と言った。そして「ワシはやっぱりアカンわ…」と子供のように泣き言をもらす。
「お父ちゃんがアカンかっても、僕がおるから大丈夫や!僕が守ってあげるから大丈夫や!」
僕がそう言うと、父の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「泣かんでええからな…。これは、僕からのお父ちゃんへの恩返しやねん。育ててもらって、僕は今までお父ちゃんからたくさんのものをいただいた。そやから、恩返しや…。」
最後はざわりんも一緒に、三人で手を重ね合った。
「お父さん、大丈夫ですよ。みんなで一緒に乗り越えていきましょう。」ざわりんがそう言うと、父はまた「ありがとう」と言った…。
父がようやく落ち着いて自分の部屋に帰っていった後、僕は子供の頃を思い出していた。
夜遅くまで働いて、クルマを駐車場に停めた後、家路につく暗い道を、僕を肩車して歩いてくれた父。
整髪料の香りと煙草の匂い。懐かしい思い出…。
やがてお婆ちゃんが死んで、責任感が人一倍強い父は、仕事の鬼になった。最愛の母が死んだ淋しさから逃れるために仕事に精を出し、周りに当たり散らしては、毎晩ウイスキーを飲んだ。
傍らには、お婆ちゃんの形見のオルゴール。
おどまぼんぎりぼ〜んぎり ぼんからさ〜きゃお〜らんど〜
小さかった僕には、ただただ悲しいそのメロディーは、子供心に恐怖心を植えつけ、僕は次第にパパが苦手になっていった。
大好きだったパパ。
優しかったパパ。
小さな僕のイメージの中のパパは、どんどん遠くへ行ってしまい、ただ口うるさくて怖いだけの、苦手な人になってしまった…。
我が家では代々、猫を飼っているが、猫は可愛がられてあまりに嬉しい時、突然我にかえったように立ち上がって噛みついてくることがある。
嬉しさが頂点に達し、やがて限界をこえる時…猫は、どうしていいかわからなくなって怒り出す。
感情の果て。
人も動物である以上、たぶんそれは同じこと…。
その人が、好きで好きでたまらないから…どうしていいかわからなくなって、苦手になってしまうのだ。
好きだからこそ遠ざけてしまう、アンビバレンツな気持ち…。
遠ざけたり、近づいたり…
そんなことを無数に繰り返しながら、父と僕は生きてきた。
恩讐の彼方に残ったものは、肩車してもらった楽しかった思い出…。
不器用な父の愛に、全力の愛で応える。
だから僕は、今日も生きる。
父が笑えないなら、僕が笑う。
父がアカンのなら、僕が頑張る。
オレンジジュースが大好きだったボクは、父と同じ煙草をくわえた大人になった。
rock'n'rollが流れる部屋。ZIPPOで火をつけて、一服。
煙の向こう側に、
父と母に手をつながれた、
赤いベレー帽が見えた気がした…。
※『赤いベレー帽』は趣旨の押しつけは一切いたしません。共感くださった方のみ、よろしければランキングにご協力ください。下記URLを、それぞれクリックしてくださるだけでOKです。
http://toplog.jp/in/?ysJBsyK
http://rank.froute.jp/23/ranklink.cgi?id=moonride
ありがとうございます。

0