朝夕がだいぶ涼しくなりましたね。皆さん、体調はいかがですか?まさぼーは、しだいに体も慣れ、今のところ順調に仕事をこなしています。
昨日は仕事が終わった後、ざわりんと久しぶりにラーメンを食べに行き、ドン・キホーテで日用品を買って、夜の公園で休憩しました。そして家に帰ってから、何人かの友達とメール。なんだかパワフルです(笑)。病院勤務時代の友人であるYさんとも久しぶりにお話できて嬉しかった〜。
みんなもいろいろ悩み事を抱えていました。
生きるということは並大抵ではないことで…それぞれがそれぞれの課題と必死に向き合っていることを改めて感じ、僕も気合いをいただきました。
そんな中、我が家ではまた一つトラブルが…。
母が、階段で転んで腕を骨折したのです。しかも、落っこちそうになる母を助けようとして、父も目の上に青タンを作ってしまいました。
今日は朝から、父が病院に母を連れていきました。その段取りがまた、悪い悪い…。何度となく鳴らされるブザーで、3階にいる僕やざわりんを呼びまくる父。気の小さい父はこんな時、気持ちが動転してしまい、いつもこんな調子です。
しかし、僕やざわりんにもそれぞれの生活があるので、いつでも父や母にばかりかまっているわけにはいきません。どんなに不安でも、最低限のことは自分で頑張ってもらわないと仕方がないのです。
骨折はやがて良くなってくるでしょう。むしろそれより心配なのは、母の我の強い性格のほうです。
一回失敗して覚えてくれたらありがたいけれど…母の場合はなかなかそれができません。骨が折れた状態で、きっとまたフラフラしながら1階にある店へ無理やり降りようとすることでしょう。
母は、昔からそういう性格なのです。
我を張って無理をして、けっきょく家族に迷惑をかけてしまう。きっとそんな性格を直すために、神様から様々な形で課題をいただいてきたのだろうに、あの年になるまで、どうしても直せません。。
こういった“心癖”(こころぐせ)というのは、直すのが実に難しくて恐ろしいものです。
その行動が結果的にどういう結末につながってゆくかという想像力よりも、「私はどうしてもこうしたいのだ!」という強固な我が、それを上回ってしまいます。
結局、最後に自分の命を守るのは、自分しかいません。どんなに周りが善意で見守っていても、悲しい我にとらわれる人を救う術はないのです。
「長生きしたいなら、二人とも気をつけて、自分の命は自分で守ってね。」
そんな風にしか言えない自分が悲しいけれど…それをちゃんと聞いて、ちゃんと理解して、言う通りにできない2人は、もっと悲しい。。
だいたい、我が儘で我の強い人というのはウチの母のみならず、恵まれて生きてきた人がほとんどです。
猫に例えて言えば、帰る場所もない野良猫は、選り好みをしません。逆に恵まれて育った飼い猫は、エサひとつにも好き嫌いがあります。
人間も同じこと。あまりにも恵まれ過ぎると、「何が何でも生き抜く」というハングリーさがなくなるのです。そして形にばかりこだわっては、自分の可能性を自ら狭め、その尻拭いを他人にさせようとする人になるのです。
まことに恐ろしいことに、若い頃に楽することを覚えたり、我が儘を押し通すことを覚えてしまうと…やがて年老いて人生の終着駅に向かう年齢になってもなお、そのままだったりするのです。
だから人間にとって、若い頃の過ごし方というのは、とても大事です。
なるべく心が柔軟なうちに心癖を取り除き、歪みを矯正しておかないと、結果的に自分で自分に酷い仕打ちをすることになってしまうのです。
人生は、本人があきらめない限り、いくつからでも再スタートがきれます。そして逆に言えば、20歳で終わってしまう人生もあると思います。
あなたの周りには、まるで老人のような20歳や、まるで幼児のような老人はいませんか?
心ある言葉をかけてくださる他人の話に素直に耳を傾けることは、その方からいただいた愛に応えるということ。
それを無視して、ありあまる愛を浪費する怠け者には、必ずそれ相応の末路が待っています。
僕は両親のことでいちいち動転しているわけにはいかないので、今日も淡々と出かけ、汗を流しながら精一杯仕事をこなしてきました。
生きたい人は、生きるために努力している。
前述のメル友の皆さんもみんな、そうやって他ならぬ自分自身の力で、ままならない日常に立ち向かっている人たちです。
困っている時や弱っている時、アドバイスならできます。だけどそれを素直に聞いて、いつもとは違うことにトライしてみるのは、本人の努力です。
生きるって並大抵のことじゃない。だから…生きたければ、頑張るしかない。
幸せになりたいなら、自分が頑張るしかありません!
結局、僕たち人間の闘いは、
自分との闘いに集約されるのです。

0