鯨肉は我々の国・日本において、戦後から高度成長期にかけて、経済的でなおかつ栄養価の高いタンパク源として、庶民の食卓には欠かせない食べ物だった。我が家でも子供の頃には、鯨の煮付けや焼き肉が普通に食卓に並び、牛肉や豚肉同様いつも美味しくいただいていた。
西欧人のように鯨油のみを目的としたもったいない使い方ではなく、日本人は古くから鯨という“海の巨獣”に感謝しつつ、肉から舌、ヒゲに至るまで全てを余すところなく食べ尽くす鯨食文化を育んできたのだ。
西欧人の価値観による一方的な捕獲禁止によって、今や鯨は非常に希少価値の高い食材となってしまい、我々庶民が気楽に口にできるものではなくなってしまった。日本古来の鯨食文化は、風前の灯火と言っていい。。
大阪市中央区千日前にあるハリハリ鍋(鯨鍋)の名店『徳家』の女将・大西睦子さんは、91年に開催されたIWC(世界捕鯨委員会)の国際会議で、世界各国のVIPたちに、堂々と鯨料理を振る舞ったという実に頼もしい女傑だ。
「食は文化である。」が持論の大西さんは、今やそれこそ鯨肉同様、希少価値となってしまった“NOと言える日本人”。
アメリカやイギリスから捕鯨についてうるさく咎められてはオロオロし、日本が議長をつとめた京都議定書を平気で踏みにじるアメリカ人に何も言えず、国の憲法よりも日米軍事同盟を優先する日本の学者や政治家たちは、民族の気骨溢れる彼女の爪の垢でも煎じて飲んだほうがいい。
さて鯨肉に続いて、このところ欧米人たちがうるさいのが、韓国を中心とする犬食文化についてだ。
日本の鯨食文化同様、犬食は韓国の歴史ある食文化である。そんな韓国の犬鍋(ポシンタン)は、例によって白人たちが激しくバッシングしている。フランスの有名女優であるブリジット・バルドーも、その一人だ。彼女は、極右的な思想を持つ国民前線(Front National)の熱烈な支持者である。
だいたいにおいて、他国の食文化にうるさく口出ししてくる連中は、たいていが白人優越主義の人種差別主義者だ。
同じ人間同士なのに人種が違うからと言って他人を差別し、愛することができないような者たちに、果たして犬や鯨を愛することができるのだろうか?
はっきり言ってしまえば、彼女たちがやっていることは、自らの民族的優越感を保つために、犬や鯨を利用しているだけではないのか?
西洋史を見ればわかるように、白人たちは他国を侵略・植民地化し、その地に暮らす人々をまるで奴隷のように扱ってきた。“愛”を説くキリスト教を掲げる国々の、これもまた真実の断面なのである。
元マクドナルドの社長である藤田田氏は、その著書『ユダヤの商法』の中で、「21世紀には日本はアメリカの一州になったと同じ状態になるだろう」と語っている。アメリカの言いなりになりつつある日本において、今や民族は滅んだに等しい。。
欧米人が鯨や犬を食べることに異を唱える際にいつも言うのが、「鯨や犬は頭がいいから殺してはいけない。」という言葉だ。
僕から言わせれば、これこそ“語るにおちたり”。「頭がいいから殺してはいけない」は、言い換えれば「頭が悪いなら殺していい」という意味であり、欧米人特有の偽善に満ちた差別主義がはっきりとわかるだろう。それを疑うことなく鵜呑みにして追従するから、日本もまた能力のある者、金になる者だけが優遇される、差別に満ちた格差社会に成り果てたのだ。。
同じ意味で、ベジタリアンもおかしい。
体質的に肉を受けつけないなら仕方がないが、「動物を食べると可哀想だから植物を食べよう」という彼らには、「植物が可哀想だ」という発想はないのだろうか?
こういった偏狭な発想の人たちは皆、幼稚で浅はかなのだ。
「可哀想だから」あるいは「可愛いから」などという、まるで幼児のような発想で、自分たちとは異なる歴史の上に成り立つ他国の文化を否定し、鼻持ちならない偽善の正義感で弾圧しようとする。
僕は牛や豚や鯨のみならず、これまで鹿に猪、羊に亀などいろいろ食べてきたが、残念ながらいまだ犬を食べたことはない。しかし機会があればぜひ、美味しくいただこうと思っている。
さて話はかわるが、僕の大学時代の彼女は、静岡県の東部の出身だった。一度、彼女の実家に遊びに行かせてもらった時、彼女のお父さんはイルカの料理を作ってくれて、僕はそれを美味しくいただいた。
そう、静岡県の東部では、イルカを食べるのである。スーパーにも、パック詰めされたイルカが普通に置いてある。
「所変われば品変わる」。その地に根づいた文化をよその人間が否定するなど、傲慢の極みだ。
世界は広い。犬や猫を愛玩し、それを「可愛い」と感じる地域もあれば、それを食用とし「美味しい」と感じる地域もある。そのどちらが偉いとか偉くないとか、議論すること自体がナンセンスだ。
日本にも、犬が好きな人と猫が好きな人がいるように「可愛い」なんていうのは、単なる趣味の問題に過ぎない。自分がそれを好きだからと言って、ことさらに押しつけるのは、実に迷惑な話だ。
食文化の問題において、それと同じようなことを欧米人はわざわざやっているのである。全くお節介も甚だしい。
人間はどんな形であれ、動物や植物を食べなければ生きられない生き物だ。
その罪深さを背負い、日々食卓に並ぶ食材に感謝しつつ、何でも美味しくいただく。
これこそが、人に許される唯一の方法であり、
食べられる動植物たちへの、せめてもの“はなむけ”ではないのだろうか?
感謝の足りない人間は、他人を愛せない。。

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