ギリシャ神話に登場する美少年ナルシスのお話を、皆さんはご存知でしょうか?
森に住む美少年ナルシスは、妖精の求愛にすらそっぽを向くほどの傲慢さで神々の怒りを買いました。神々は、この自信過剰な冷たい少年を懲らしめてやることにします。
ある日、森での狩りの最中、喉が渇いたナルシスは、とある泉のほとりに身をかがめました。すると、水面に自分の姿が映っていました。そのあまりの美しさに、ナルシスは、それこそが美しい水の精なのだと思いこんでしまいます。
そして、ナルシスは恋に落ちました。しかし、水に映った影は、話しかけても応えてはくれず、抱きしめようとしては消えてしまうのです。
ナルシスは、報われない恋のために、やがて食事をとることも眠ることもできなくなり、しまいには衰弱しきって死んでしまいます。
彼が亡くなった後、静かな泉のほとりには、一輪の水仙(ナルシス)が、ひっそりと咲いていました。。
さて、昔から鏡ばかり見つめてはうっとりしているような人に向かって「あの人はナルシストだ!」などと言います。
しかし精神分析の世界における「ナルシシズム」とは、単なる自信過剰や自己満足を表す言葉ではありません。フロイトはこれを「リビドーが外部の対象に向かわず、自我に向かう状態」と定義しています。要するに、「自分以外のものは愛さない、自己愛の塊」ということです。
こういった過剰な自己愛には、意外な恐ろしい落とし穴が潜んでいます。実は他ならぬ僕自身が、若い頃は大変な自惚れ屋のナルシストで、まさにこの落とし穴にはまっていたことがあるのです。
「ナルシシズム」は、ふとしたきっかけによって、自惚れとは正反対の激しい自己非難に転化します。つまりは、自己の全てを否定し、全ての自信を喪失してしまう「鬱状態」と常に背中合わせなのです。
現代の日本には、ゆとり教育の弊害や社会自体の急激な変容による価値観の多様化により、こういったナルシストの若者が急増しています。
ちょっとしたきっかけで仲の良かった他人を否定し見下しては自己を正当化しますが、なぜか本人もすっきりとはせずに、落ち込みふさぎ込んでしまうのです。
ではそれは、いかなるメカニズムによって起こるのでしょうか?
例えば、あるナルシストの男性が恋人から別れを告げられたとします。その恋人は、もともと大変な浮気者で、心変わりの激しいタイプでした。
ところが、自己愛の塊である男性の意識は、彼女のそういった性癖には向けられていません。彼にとって恋愛とは、あくまでも自らの魅力によってもたらされるものであり、相手との関係によって作り上げるものではないのです。
こうして、恋人を失った悲しみや悔しさは全て非難や攻撃に姿を変えて、彼自身を襲うのです。本当のナルシストとは、自分で自分を結果的に傷つける、悲しくも恐ろしい存在なのです。
ふとしたきっかけで突然手のひらを返し、過去にまでさかのぼって他人を否定するような人を目にしたことはありませんか?…その方は、間違いなくナルシストです。
僕は、まだ若い頃、過去に様々な問題のあった父と母、そして別れたかつての婚約者…この三人をどうしても許すことができませんでした。
それは、まさに自分可愛さの「ナルシシズム」ゆえ。相手の事情や立場をおもんばかる優しさが欠けていたために相手には関心がなく、怒りや悔しさは全て、自分自身へと向かいました。
それは時に、自殺未遂といった激しい形で現れました。たとえ誰かに恋をしていても、相手に恋をしているのではなく、「恋している相手に自分を重ねていた」だけだったので、相手がいなくなると同時に重ねていたリビドーを喪失してしまい、自己存在の耐えられない軽さに、自分を傷つける行為にひた走っていったのです。。
それは、いわば「一人相撲」。
自分を愛し、自分に恋し、自分が許せなくて、自分を傷つける。。そこには、どこまで行っても「他者の存在」がありません。
まずは「他者の存在」を認め、受け入れ、そして許すこと。僕の長い半生は、まさにそのためだけに費やされてきたと言っても過言ではないでしょう。
僕は、この『赤いベレー帽』のブログで、幼少期からの生い立ちや若い頃の恋愛の話を、赤裸々に公開してきました。
それらを読んでくださった方の中には、「だからあの人は人格障害で、今の奥さんとも共依存なのだ」と偏見の目を向けられた方もいらっしゃいました。
確かに僕は、人格障害です。そして、かつて重度の共依存関係を体験しています。しかしだからこそ、生涯をかけて、その解明と克服に努めてきたのです。
何ら人に自慢できることもない僕ですが、一つだけ胸を張って言えることがあります。
「僕は、父と母、そしてかつての婚約者。この三人を赦しています。」
だから、僕や僕の妻ざわりんがやって来たことに対して疑惑の目で見たり、非難される方には、こう申し上げたいです。
「僕は、赦せたよ。あなたは、赦せるのかな?」と。。
他人を赦せず自分を赦せないナルシストに、僕の批判はできません。最近はブログに少々飽きが来て、もっぱら現実生活に専念する合間に昔とった杵柄でデカルトなどを読んだりしていたのですが、既に論証済みの出来事に対して、あらためていちいち説明しなければならないことほど、面倒なことはありません。
以前にも申し上げたことがありますが、感情というものがいつも人間の行動や理解を妨げます。目の前の出来事を素直に受けとめるためには、時にデジタルな数学的思考が必要とされます。
僕は、男としては、かなり奔放な半生を生きてきました。さして僕に関心のない傍観者の目からは、はなはだ傍迷惑な存在にすら見えるかもしれません。
しかし、それでもなお、妻ざわりんは、いつも変わらぬ笑顔と優しさで、僕のそばにいてくれます。
それを、互いに利用しあう「醜い共依存関係」と捉えるも、全てを赦し愛しあった「究極の大人の愛の形」と捉えるも、その方次第。世代や経験の絶対量、そして経験の質によって、それらは天と地ほどに異なりを見せることでしょう。。
『ブラザーサン・シスタームーン』の聖フランチェスコの例をあげるまでもなく、真の愛に目覚めてそれを貫いた人の生涯は、お茶の間感覚の傍目には、エキセントリックに見えるものです。それは時にマゾヒスティックにすら思え、自分自身の経験の量と質に従って、うがった見方をしたくもなることでしょう。
疑う人は、マザー・テレサさえも、疑います。
そして…信じる人は、まさぼーさえも、信じられるものです。。
「信じる者は救われる」。この言葉の意味は、大変に深いと僕は思います。
自分を救うのは、自分自身。そして、そのためにはいつも温かく見守ってくれるパートナーの存在が大切です。
僕は、「自分が幸せだ」と自信を持って言うことができます。幸せの青い鳥が、いつもそばで微笑んでくれているからです。
そして、磨かれて磨かれて、そんな小さな幸せの存在に気づくことのできる僕自身に、なることができたからです。。
長い長い時間とたくさんの経験は、全て無駄ではありませんでした。
「信じてくれ」とは言いません。しかし、僕たち夫婦の真実を信じられる方は、きっと「幸せな人」。
そして、きっとこれから「幸せになれる人」だと思います。
幸せは、そんな風にして、まるでさざ波のように…
静かに密やかに、広がってゆくものなのです。。

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