人はどんなことに対して、幸せを感じる生き物でしょうか?
お金。名誉。お子さんのいらっしゃる方ならば、子供たちの幸せ。いろいろあることでしょう。
しかし、あれやこれやと幸せを追い求める中で、けっして忘れてはいけないもの。それが、愛です。
愛を語るには、まず愛の定義から始めなくてはなりません。そもそも愛って何でしょうか?
男女の恋愛。家族愛。友人との友情。動物や自然に対する愛。愛にもいろいろありますが、実は名前は違えども、愛の本質は同じことなのではないでしょうか?
「対象となる物や人を、赦し、惜しみなく与えること」。それこそが、愛。本物の愛だと、僕は考えています。
いろいろな愛の中でも、特に男女の恋愛は、他の愛とは異なるものとして捉えられがちです。そして、そういった間違った価値観に基づいた間違ったメッセージが、世間には氾濫しています。
歌や小説、テレビや映画。間違った価値観に基づいた悲しい恋愛の物語が、多数の人々の共感を呼んでベストセラーになっています。
それは何故かと言えば、そこに「挫折のドラマ」があるからです。挫折のドラマは、人の共感を呼びやすい代物です。誰にでもありがちな失敗をわかりやすく描いてくれるから、感情移入しやすいのです。
もうひとつの理由は、「自己愛のドラマ」であるからです。「そのままの私で愛されたい。でも愛されない。どうして?」こういったスタイルのドラマは、たいてい人気があります。
そして面白いことに、「女性ウケのいい小説」や、「男性ウケのいい歌」、などといった存在があります。
女性は女性の視点から恋愛を語り、男性は男性の視点から恋愛を語る。こういったことは、何十年、いや何百年も繰り返し行われてきたことであり、皆さんそれを当たり前のこととして受け入れています。
しかし、先ほどお話したように、恋愛もまた愛です。
もしも目の前の異性を「愛している。」と言うのならば、どうして女性の視点からしか恋愛を語れなかったり、そういった内容の小説や歌や映画に感動してしまったりするのでしょうか?
それこそが、「自己愛の落とし穴」なのです。
恋する女性に、こういった方をよく見かけます。
残念なことに別れ話が持ち上がった相手の男性に対して「あの人は、私がいてあげなくちゃダメなのよ!あの人のことは私が一番わかっているの!私は“あげまん”なのよ!私がいるからこそ、あの人は幸せになれるのよ!」と言っては、既に心が離れて別の女性と新たな幸せを掴もうと歩き始めた男性に対して、半ばストーカー的な行動に出ては相手を追い込む人。
言うまでもなく、これは既に「愛」ではありません。あるいは悲しいことですが、最初から「愛」ではなかったのかもしれません。。
本当に相手を「愛して」いるのならば、たとえ自分の立場がどんなに追い込まれようとも、その方の幸せを、その方が自分で選んだ幸せを、応援してあげるのが本当なのではないでしょうか?
僕は、まだ若い二十代の頃に、最愛の婚約者を、こうして見送りました。。
まだ若くて未熟だったために、さすがに笑顔でとはいきませんでした。海ができるほどの涙を流し尽くし、心の病気を悪化させて仕事は解雇され、まさに全てをなくしてしまいました。
しかしそれでも、「彼女の幸せ」を祈る気持ちのほうが「自分の幸せ」を願う気持ちよりも遥かに上回ったために、僕は断腸の思いで身を引くことができたのです。
いつも口癖のように申し上げることですが、「捨てる神あれば拾う神あり。」です。
こうした僕の優しさが、周りに伝わっていったのでしょう。まるであやとりの糸を手繰り寄せるかのように不思議なご縁に導かれ、いつしか僕は、新しい恋人と知り合っていました。そう…それはまさに悩み苦しみ、僕のもとを涙ながらに去っていった婚約者の彼女が、導いてくれた素晴らしいご縁でした。。
それが、今の妻“ざわりん”です。
ざわりんとは、僕が25。彼女が29の頃に知り合って、既に17年のつきあいになります。
思えば、いろいろなことがありました。別れ話が持ち上がったことだって、一度や二度ではありません。
元来、芸術家肌で奔放な性格の僕は、自由を好みます。そして、そんな性質のままに、自由に振る舞って生きてきました。性格的にお堅い方ならば、とっくの昔に愛想を尽かして、裸足で逃げ出していたことでしょう。
しかし、先ほどのお話に戻りますが、一度「好き」になった相手に愛想を尽かすというのもまた、自己愛ではないでしょうか?実生活でもブログなどのネット社会でも、こういった方、こういった出来事は多々見受けられます。
かつて僕のブログ『赤いベレー帽』を「最高ですね!非の打ちどころがないほど完璧で、素敵なブログですよ!」なんて絶賛してくれた方がいらっしゃいましたが、後でちょっとしたトラブルから突然手のひらを返して、僕のブログのみならず、僕やざわりんに対する中傷にあたる言葉を吐いて、僕たち夫婦をがっかりさせてくれたものです。
結局そういった方は、僕やざわりんのことを、何か理想化した姿として捉え、ご自分の中の狭い「まさぼー像」や「赤いベレー帽像」にそぐわない僕たちの姿を垣間見て、あるいは垣間見たと思い込んで、「自分を守る」ために心の中から僕たちをシャットアウトしたのだろうと思います。
「自分を守る」ために相手を単純化するという作業は、人間によく見られる行為です。相手に受け入れられるか、拒絶されるか、まさに生きるか死ぬかのせめぎ合いと言っていい恋愛においては、特に顕著です。
切ないお話になりますが…その方は、これまで恋愛で何度も失敗を繰り返してきた方でした。明るく気さくでバイタリティのあるその方は、たぶん魅力に溢れた人なのでしょう。だから一度失敗しても別の素敵なお相手が現れて、また恋をする。だけど、どうやらまた同じような失敗を繰り返しているようなのです。。
僕とざわりんは、先ほども申し上げたように、既に17年のつきあいです。それこそ様々な出来事があったにも関わらず、今も夫婦仲は非常に良く、経済的には非常に厳しい生活の中ではありますが、どんな時でも笑顔がたえません。
それは「相手の全てを赦し、無条件に愛する」という、信頼のなせるわざに他なりません。
小さな欠点やちょっとした失敗などは「目をつぶるまでもなく、最初から赦している」。そんな関係なのです。
そもそも男と女は、目に見える体のみならず、目には見えない考え方や価値観において、大きな違いがあります。
その違いゆえに、男性の目には女性が、女性の目には男性が、それぞれ理解できない存在に映ることもあるでしょう。
そういった性差による違いを、自分が属する性によって判断し批判する。日々そんな無意味なことをしている方の、なんと多いことでしょうか。。
小さな揚げ足とりは、無い物ねだりの証。
それこそ、自分には無い物を求めて異性と恋愛をするはずなのに、いざ不満に思うことがあると「男なんて…」「女なんて…」と文句を言うなんて、あまりにも虫が良すぎるのではないでしょうか?
違いは違いとして、そのまま愛すること。難しいことですが、それが自分とは異なる性と長くつきあうコツなのではないかと思います。
僕のブログを長く読んでくださった方ならお分かりいただけると思いますが、僕たちの人生は、まさに波乱万丈。僕の心の病気と家族の問題。重いハンディを背負い、まさに挫折や失敗の繰り返しでした。
僕のみならず、ざわりんにもつらい過去はあります。彼女は僕と知り合うまで、強い人間不信に悩み、この世の全てを憎み嫌っておりました。そして、自閉的と言っていいくらいに人と会話のできない女性でした。
そんな彼女が、生まれて初めて心を開いたのが、それまでの人生、誰よりも傷つき苦しみ抜いてきた、この僕だったのです。。
慈悲深い神様は、きっと様々な難しい課題を僕たちにお与えになられる一方で、僕たちに、どんな困難にも耐え乗り越えてゆける力…宝物をプレゼントしてくださったのでしょう。
それこそが、「愛」でした。。
ざわりんと僕は今でも、仕事や用事から帰宅して、家で一緒になる時に、まずお互いの手を握りしめます。
手のひらから心地よい温かさが伝わって、お互いのオーラが通じ合うのを感じます。
この温かさがあるかぎり…
この温かささえあれば…
僕たちはこれからも、いかなる困難や批判にも打ち勝ってゆけます。
いや、最初から「勝つ」必要すらないのです。
全てを赦し愛し合える誰かと、二人でいられること。それこそが世界でいちばん幸せなことだから…たとえ世界中の全てが僕たちを忌み嫌い敵になったとしても…それでも、笑顔でいられます。
だから、これまで僕たちを批判された方たちには、こう問いたいです。
「あなたは、誰かを一人でも幸せにしたことがありますか?」
ざわりんは、僕がどういった状況に追い込まれて見える時でも、必ずこう言います。
「大丈夫だよ。二人で頑張れば、なんとかなるもん!まさぼーが元気でいてくれれば、それが幸せなんだよ。まさぼーと出会えたことが、幸せなんだよ。」
僕は、こんな風に言ってくれる人と出会えて、本当に本当に幸せに思います。そして…できれば一人でも多くの方に、この幸せをお裾分けしたいと思うのです。。
僕たちは、世間的に見ればけっして誉められるような夫婦ではないかもしれません。
だけれど、「好き」という言葉の重みを誰よりも知る僕たちは、世間の評価など「どこ吹く風」で、今日も幸せいっぱいに歩いています。。
愛は、幸せ。
幸せは、愛です。。

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