人生に…そして生きることそのものに…悩む人が飛躍的に増えています。
テレビや新聞を見れば、連日目を覆わんばかりの暗いニュースばかり。子供達は自殺し、大人達は金に目が眩む…。そんな愚かでどうしようもない世の中です。
先日自殺したある子供のその理由が「イジメられてズボンを脱がされたから」。「ズボンを脱がされて恥ずかしかったから死ぬ」と言うのです。
皆さんは、この子供をどう思いますでしょうか?“可哀想”だと思いますか?僕は…残念ながら彼を“可哀想”だとは思えませんでした…。ズボンを脱がされただけで死を選ぶ…そんな彼の弱さを、ただ“哀れ”だと思ったのです。
ズボンを脱がされたのが悔しかったなら、相手のズボンも同じように脱がして引きずりまわせばいい。僕がその子なら、きっとそうしたことでしょう。
僕も小中学生の頃に執拗なイジメに苦しんだ人間です。そして、中学2年の頃にそんなイジメっ子軍団5名と5対1で喧嘩して、3名まで返り討ちにしました。その手口は、校舎の2階から1人を投げ落として残りの連中をビビらせ、腰がひけた瞬間に消毒液をぶちまけて馬乗りでボコボコにするという実に荒っぽいものでした。やったこと自体はまぎれもない暴力であり、とても誉められたものではありません…。しかし「ナメるな!」という強い意志を示した出来事としては、いまだに間違ったことはしていないと思っています。
けっきょく言いたいことも言えず、やりたいこともやれず、たっぷり溜め込んだ不平や不満を吐き出す勇気もないから、他人からのイジメという外圧に負けて、自殺という行為に走るのです。
自殺とは、【自分を消す】行為です。イジメられて自殺するということは、この世界にたったひとつの、かけがえのない自分という命を他人のために捧げることに他なりません。
だから僕は、どんなニュースを見ても、イジメによる自殺を可哀想だとは思えません。
イジメるヤツが悪い。それは当然です。しかしイジメによって疲弊しきってしまい、大切な命をあっさり投げ出す子供を見ると、こう思います。「なんと弱い命なのだろうか」と…。
どうしてイジメという、人として最低な行為をするようなくだらない連中のために、その子供が死ぬ必要があるというのでしょう?ここまで自己犠牲的だと、悲劇を通り越して、もはや喜劇ではありませんか。散々イジメられて、屈辱的な思いをさせられ続けて、そして自ら死ぬ。お人好しにもほどがあると言いたいです。
語弊があるのを重々承知のうえで書かせていただけば、そんな子供は、たとえイジメられたその時点で自殺しなくとも、いずれ若くして死ぬことでしょう。所詮そういう星のもとに生まれ、【弱い命の愚かさと哀れさ】を残された人々に伝えるためのメッセンジャーの役割を果たして、そして死んでいった…。そんな風に感じるし、またそんな風にでも感じなければ、やりきれないではありませんか!?
僕は、たとえどんな理由があろうと、自殺というもの、自ら命を絶つ行為を否定します。それは、ズボンを脱がされたから自殺するという子供であっても、長年障害や病気で苦しみ抜いた末に自ら命を絶ったような方であっても、同じことであると考えます。
これは、僕自身が【あの世】というものの存在を信じているからです。ですから、「あの世など存在しない。死んだらおしまいだ。」とお考えの方には理解していただけないでしょうし、そういった考え方になるのにはそれ相応のつらい体験や悲しい思い出がある場合が多いので、あえて無理強いは致しません。
あの世というものの存在を信じると、この世の出来事は、楽しいことであれつらいことであれ、どんな出来事でも全てが【学び】であると捉えるようになります。この世に生を受けて、様々な出来事を体験し魂に磨きをかける。それこそが我々の人生の目的であると強く感じ、日々のどんな出来事にも常に感謝の気持ちを忘れてはいけないと覚悟するようになります。
「神様などいない。霊など存在しない。命は親からいただいたもので神様からいただいたわけではない。」そうお考えになる方もいらっしゃることでしょう。そう考える方には、大きく分けて2つのタイプが存在すると思います。
1つは、まだ若くて未熟なために人生を深く洞察した経験がなく、日々の小さな出来事にも不平不満を抱いては「自分だけ何故こんな悲しい目にあうのだろうか?」と塞ぎこんでいる人。
そしてもう1つは、人生の中で愛する人物を事故や自殺などでなくしたり、仕事で大きな失敗をする、あるいは莫大な借金を抱えるなどの挫折体験により、「この世は無情だ…」と一種の虚無感や無情感に陥り、「この世に神様などいない!」と思ってしまう人です。
人生には本当に多種多様な体験が待ち構えています。例えば、誰かが酷い交通事故にあうとします。結果は2つに1つ。生きるか死ぬかです。こういった場合、奇跡的に助かった方の多くはこうおっしゃいます。「運が良かった。神様に助けていただいた。」と。これは特定の宗教に対する信心のあるなしに関わらず、奇跡的に命が助かったというその事実に対して、人智を越えた不思議を感じ、神やご先祖への感謝を強く感じるというわけです。
では、それとは反対に助からなかった場合はどうでしょうか?自分が事故にあって亡くなった場合はその方が既にこの世にいないわけですから確認のしようもありませんが、例えば誰かご家族の方が事故にあわれて突然亡くなられた場合、そのことを嘆き悲しみひたすら誰かを責め恨むのではないでしょうか?そこにはもはや神様やご先祖に対する感謝の気持ちなどわいてくる余地もなく、その後の人生を前向きになれずに棒に振る方もいらっしゃるかと思います。
「それをあなたは責めるのか?」と問われれば、僕はそれを責めはしません。亡くなられた方の死を心から悼み、遺された方のお気持ちを考えて胸を痛め、場合によっては慰めの言葉をかけたいと思います。
しかし、そこでその方が気丈にも神様やご先祖への感謝を口にし、「ご加護をいただいたけれど、今回ばかりはどうにもならなかった…。亡くなったあの人のぶんまで、遺された私たちが頑張って生きなくちゃね。それがあの人の一番の供養になるし、あの人もそれを喜んでくれると思う…」とおっしゃられたならば、そこに慰めの言葉をかける余地は存在しません。そこで僕たちがかけるべき言葉は、「頑張ろうね!」という励ましの言葉だけなのではないでしょうか?
僕はいつもこのブログで同じことを皆さんにお伝えしています。前向きな人と後ろ向きな人とで、人生に対する捉え方が変わる、と。後ろ向きな人に対してかける言葉は【慰め】です。しかし前向きな人に対してかける言葉はいつも【励まし】なのです。
同じ出来事を体験しても、受け手の方それぞれの捉え方によって大きな違いが現れてくるのは、このためです。そして、何があっても前向きさをなくさない人には…人生に対し、命に対し、ご先祖に対し、そして神様に対し、いつも感謝の気持ちがあるように思います。
先述の交通事故のお話。例えばそのような悲惨な体験があった時にも、その悲惨極まりない体験にすら感謝し、人生の意味に思いを馳せ、それを未だ迷う人々に伝えてゆく。それこそが人がこの世に生を受けた理由そのものであり、そんな人の周りに人は集まり、暗い闇を祓う良い流れ…光を放つ波長が生まれてくるのではないでしょうか?そして、僕もまた、自分自身の人生に起こった、あるいはこれから起こる様々な体験に対し、いつも感謝の気持ちを忘れず、そんな風に迷う人々へのメッセージを命ある限り伝え続けていきたいと思っている人間の1人です。
嬉しいことや楽しいことがあった時に感謝し、神様の存在を感じる。これは誰にでもわりと簡単にできることです。しかし逆に、悲しいことやつらいことがあった時に感謝し神様の存在を感じるのは、とてつもなく難しいことだと思います。でも僕は思うのです。嬉しいことや楽しいことよりむしろ、悲しいことやつらいこと…そちらのほうが大きなメッセージであり、語弊を承知の上で申し上げれば、大いなる人生の学びをいただける【大きな喜び】なのだ、と。
僕が何故こういった考えに至り、日々を感謝の中に過ごせるようになったのか?それには、ある僕の人生を決定づける出来事があり、このブログもそのことを文章として残したい、いや残さねば!という強く激しい思いから、始まりました。僕の体調面の問題や母の入院などもあり、そのお話はまだ記事にするに至っておりませんが、一言で申し上げればそれは、かつて僕がある方からとてつもない【本物の愛】をいただいた話であり、そこに神様の存在やそのご加護を信じずにはいられない、不思議な体験でもありました。いずれにせよ僕が、今こうして幸せに生きていられるのも、その体験のおかげであり、その方と神様にいつも感謝の気持ちを欠かしたことはありません…。
さて最近は善悪の判断すらつかず、やっていいことといけないことがわからないといった人が、まだ分別のつかない子供のみならず、二十歳を越えた若者から果ては大人まで増えてきています。やってはいけないことがわからないから、人を傷つけるようなことをしてしまう。そして、他人を悲しませたというそのどす黒いオーラは、皮肉にも必ず自分へとかえってきます。

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