以下は私が教職員組合に提出した報告書からの抜粋です。
詳しくは私のHPのクリの部屋に掲載してあります。
http://kurikuri.jp/
教育復興促進ボランティア報告 95年2月14日〜18日
被災状況
活動場所である二宮小学校付近(JR三ノ宮駅北東800m)では、ビルの倒壊はほとんどなく、古い木造建築の倒壊がある程度で、学校からはせいぜい屋根の青いビニ−ルシ−トが少し目立つ位なので、被災者の数(2月14日現在、校内320名、校外500名)の多さに違和感を生じる。
しかし、数百m海側に行けばあの三ノ宮駅周辺のビル倒壊現場がある。また余震で向かいのマンションを壊し道路を完全にふさいだあの柏井ビル
までは徒歩5分である。
あの頑丈そうな神戸製鋼、市役所旧館、駅周辺のビルの倒壊は震度7の地震の前には、どんな建物であっても壊れるという認識が必要である。
また外見上損壊がなくても、中は全壊状態で足の踏み場もなく、住む事が
不可能な状況がある。被災者の話しによれば14Fのマンションでは地震の為、ピアノが50cm空中に浮き、床が抜けたという。また4Fに住んでいたご婦人は箪笥の引出があらゆる方向から飛んできたという。
幸い、寝ていて、低い姿勢と布団がクッションになり、また偶然にも顔の
周辺50cm四方が空間となり九死に一生を得たとの話であった。家具が凶器になったように学校のロッカ−、体育器具等の倒壊や化学薬品による出火が予想され、固定措置等の対策が望まれる。
校舎
学校内は教室に男女、老若の区別なく、人数も偏っていて、犬までも同居していた。また、震災後1ヶ月にもかかわらず、廊下にもいる状況で衛生面等の環境も劣悪である。救援物資の蒲団もやっと数がそろい分配できたのは、一ヶ月後の2月16日であった。その際にも分配数でトラブルが生じた。この小学校にも1000人以上の避難民がいて、かなりの学校備品が暖をとるため薪となった。
充分な毛布、食料等の備蓄が望まれる。数が足りないと奪い合いとなりパニックが誘発される。毛布だけでなく、コンパクトな緊急用のアルミシ−トやマットを備蓄すべきである。またその管理、配布にはかなりの注意が必要である。神戸でも均等に分配されず、半狂乱状態の人をみた。
また物資援助にしても、必要としないと思われる人が制限以上のものを持っていく状況があり、早くたくさん持っていく為に、嘘を平然とつく人もいた。
教室には寝たきり老人が4人ほどいる所があり、まさに老人ホ−ムであった。世話は同室の比較的元気な人が介護していた。またユミさんという若い良心の固まりのような看護婦さんがボランティアに来ていて、面倒をみているが、1人での対応は不可能で、すべてが彼女に集中していた。
医療チ−ムが午前10時〜午後8時までいるが、このような状況には対処
できていない。彼女がいるのは2月末まで、その後の対応はどうするのであろうか。
現地では、おじいさんが心因性の脳梗塞になり、息子に連絡したが、最初、引取を拒否するなどの深刻な問題も生じた。病院でも身よりのない寝たきり老人の入院を断るなど、まるで学校が姥捨て山のようになってい
る。
『へどがでるような話しばっかりや。』教頭先生が嘆いていた。人工透析や毎日ある特殊な薬を飲まなければいけないひともいる。
慣れない避難所生活と寒い為、一時は12、3人が肺炎にかかり危険な
状態になったそうである。御老人が衰弱の為、亡くなっているというニュ−スがここでは現実の話で、様態が悪化し救急車で運ばれる人が何人かいた。
これらの事までもが、教職員におしつけられ24時間体制をとらされ、管理職は判断をせまられる。
今後、看護婦さんを避難所に派遣するなどの措置が必要であろう。しかし
看護婦不足の現在、勤務等の関係で看護婦さん達のボランティア活動は難しいであろう。
勤務状況
職員の主な仕事は、
@ 食事や支給物資の搬入、整理、分配。
A 避難者の確認、部屋割り、応対、世話、電話の取次等、他。
B 生徒との連絡、掌握、授業再開の準備。
C 13日以降、始まった低学年、高学年の午前、午後の2部制授業。
D その他あらゆる雑務。
週15、6時間の授業の勤務形態になれきっている我々がまさに午前6時
30分出勤、午後7〜8時帰宅、さらに夜勤という激務に耐えられるであろうか。最初の2週間は管理職と2名の職員、計4名が出勤することができただけであった。この間、4人は帰宅することが、できなかったのである。
そして、忘れてはいけない事は教職員や地元のボランティア自身が被災者であるという事実である。不眠、不休の救護活動に授業が再開され職員、ボランティア達は疲れきっていた。『いつまでこんな事が続くのだろうか。』ふともらした言葉が私の耳に残った。
災害時には交通手段がなくなり、通勤にはかなりの困難が生じる。授業が始まるまでは、救援活動が主体となるであろう。それまで教員が住居近くの学校に勤務ができるような災害時勤務校制度を設けたらよいのではないだろうか。
我々神奈川教職員組合の仕事
@ 高山の篤志家が設営した風呂の運営、管理(外で焚火にあたりながら)
仕事 月、水、金、 午後2時〜9時
体の不自由な人の入浴介助
それ以外の日 午後4時〜9時
但し、準備は3時間前よりお湯をためる。
A 搬入、運搬、配布の手伝い、トイレ掃除、受付、教室の整理。。
B 雑務 損壊した家に家財を取りにいく。
体の不自由な人の付き添い、介護。
教科書を他の学校に取りに行く。
次から、次へと仕事がいろんな仕事が入るので、食事や休憩をとれない時
がある。3人派遣されていたが、午前中はお互いに忙しく、顔をあわせない時もあった。
食 事
朝 菓子パン1個 牛乳またはジュ−ス
2/18 昼 菓子パン1個 牛乳またはジュ−ス
現 在
夜 A おにぎり2個 ウインナ−1本、たくわん2枚、コロッケ
B 同上 メンチ
C 同上 肉団子
夕食はこれが基本でA、B、Cの繰り返し
夜、山菜ごはんだけの日もあった。一切、暖かいものや野菜はない。あとは炊きだしが入る日もある。ごはん、味噌汁、豚汁、おかゆ
しかし、並ばなければもらえないので、寝たきりの人や、老人にはもらえない人もいる。
ここは、三ノ宮駅に近く、TV等の取材が入るので物資が届きやすいようである。もっと状況の悪く、今だに、乾パンだけの食事しか配給できない避難所があるらしい。
この小学校でも最初の3日間はライフラインがすべてだめで、水や食料は
ほとんど届かなっかようである。1000人以上の避難者にパン200個が配給され、取り合いとなり、かなりの混乱状態に陥ったとの事。
今後、栄養のアンバランスやカロリ−不足から健康状態の悪化する人が増加するであろう。我々はその為、ビタミン剤を飲んでいた。
とにかく、暖かいものが食べたかった。避難所では充分な水や食料の備蓄がのぞまれる。また、トイレ等の問題も深刻である。断水、下水管の破壊
により、使用できなくなる。現地でも糞便がいたるところでされ、かなり
の異臭をはなった。夏や雨期においては伝染病などが問題となるであろう。
校庭の片隅には高校生ボランティアによって埋められた糞便が小山のよう
に盛り上がっていた。赤ん坊や老人の紙おむつがビニ−ルに入れられ、処理できないまま放置されていた。
簡易トイレ、ビニ−ルシ−ト、紙おむつ等も備蓄すべきものである。
震災当日 小学校の門を地元消防団が鍵を壊し、校庭に被災民を入れた。余震を恐れ て誰も校舎内に入ろうとはしなかったそうである。寒かったため、学校備品がかなり燃やされた。机、椅子、ほうき等、あらゆるものが灰となった。
また、電話はベルがなるけれども、通話は不能で公衆電話(カ−ド不可)と黒電話のみが使用できただけである。震災後、3日間は何が起きても不思議ではなくパニック寸前、校長先生は胸ぐらをつかまれ、かなり脅迫されたそうである。
しかしその校長は『ほんまにおもろかったで。』と言いはなった。私は
そこに関西人のたくましさ、したたかさを感じとった。
緊急時の行政との連絡手段、携帯無線等を備える必要があるだろう。その校長先生はいつも携帯電話を持っていた。またアメリカの電話会社から3月いっぱいの電話料を含んだ、携帯電話の提供があった。(緊急時、多くの人が携帯電話を一度に使用したら、通信不能になるのは明白な事実であるが。)
地震数分前に発光現象が観測されたとの報道があるが、前日の午後9時頃、空の色がかなり不自然な感じであったという証言を3人から得た。
小説家の藤本義一さんの話しによると、野良犬が20匹、大型犬が先頭、中間、最後につき、整然と東に向っていたそうである。一方、人は西(長田区方面)へと避難していたそうである。これと似たような話をある人から聞いた。また取材ヘリコプタ−の音で携帯ラジオはほとんど聞こえなかったそうである。そして低空飛行による、風圧の為に半壊の家が潰れたという話もあった。
続く


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