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想像から 創造への誘発

2011/3/31 | 投稿者: komori

3月も間もなく終わろうとしている。近所の西友はやっとこ通常営業に戻り、東京は徐々に日常を取り戻しつつあるように見受けられる。悪意を込めて言うわけではないが、ほとぼりがもう冷めてしまったかのような、そんな衒いも、感じ取られなくもない。無論テレビ、新聞、インターネットを開けば、不安なニュースは絶えない。が、街はそこまで閉鎖的な感じもしなくなった。まだ店閉まるの、早いけど。何かしなければ、と思い立つ人々の意識が、実務的な問題より前に現出してる気がして、それが開かれたものとして受け取られるのかもしれない。そんな気持ちはこれまで、自分は卑屈で臆病な人間だったから、覚えたことがなかった。そういった気持ちが芽生えることから、逃れ続けていた。共に在ることや、助け合うこと。だけど今回の震災で、自らの出身地、家族、友人が被災者という身になって、沢山の優しい声がどれだけ心の励みになっただろう、現に今もその優しさに支え続けられている、例えそれはメールやツイッターでも構わない。家族と連絡が取れた時の、「よかった!」という誰かの声が、どれ程「よかった!」そのただのそれだけでしかなかったことか。示唆でもない。打算などない。幾重にもツールを用いながらも、大よそツールでもなんでもない、もっと根源的なことばの、温かさ、強さ。その時ことばは詩でであり、歌とも呼べるのかもしれない、と思った。震災後すぐは、ツイッターにしろ、このブログにしろ(あまり更新が出来なかった。震災直後の記事は混乱を招く内容だったため削除してしまった。)ライヴのMCもそう、歌うことそれ自体をとっても、どうしてもことばを前に身構える自分が居た。自粛、不謹慎、そういった自己の内に内包する後ろめたさよりももっと巨大なのは、客観の絶対性、必然性。いやがおうにも、あらかた返答の返答くらいまでは予測して発言・発信しなけらばならぬような、監視下のことばたち。だけど元来それは他者とのコミュニケーションの中ではごくごく自明のことで、他人の身になれと言えども、他人の身にはなれない。互いは別個のものであるのに、同一足らんとするために設ける客観の柵は、まるで駆け引きのゲームのよう。この時ことばとは、単にゲームのルールに過ぎない。しかし、「客観」を「思いやり」という言葉にすり替えてみよう。想像してみること。別の宇宙を。イマジン、の邦訳はもしかしたら「思いやり」が一番しっくり来るのかもしれない、と最近思う。震災の後、そうやって僕等は神経衰弱に陥り、空想上の監守を余計に陣取らせていたようだった。結局それを打破するのが、少なくとも僕にとっては歌だった。久しぶりにボブ・ディランを聴きながら、ああ、この人の歌には、主義も主張もなかったんだ、と再考の日々。こういった窮地に追いやられる状況の中で、求めてしまうのは、何が正しくて、何がそうでないか。揺るがぬ太い軸のような答え。そいつに寄りかかっていりゃ身を倒すこともないって言うのなら、そりゃ皆こぞって群がるよ。でも急いでそいつに飛びつく前に、もう一度僕等は深呼吸をするべきなのかもしれない。調度幹と幹の間に吹く風を吸い込むような心地で。そして想像してみること。思いやり。虚像同士のトレードではなく、言うなればもっと一方通行な思い過ごしでも構わない。信頼を消費するなら、無償で誤解をし続けよう。そうやって投げかけた半ば投げやりなことば、決して求められるべくして生まれてきたわけでもないそれは、報いがない故に交換不可能なものとしてただここに在る。その事実だけはどうにも揺るぎないし、もし今歌うべき歌があるとしたら、きっとそんなことばで歌われるべきだろう。どこまでも自由な。僕等にはまだ想像する自由がある。そして想像こそが創造を誘発させるのでしょう。その創造がやがて僕等の未来、具現な姿そのものとして、いつの日か立ち現れるでしょう。

2011年 3月の終わりに
拙文失礼致しました

komori
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