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小森清貴 solo Album『カトレア』発売中 詳細

小森清貴 Twitter @kiyotakakomori
連絡先 kiyotakakomoriofficial@gmail.com
2009/8/9 | 投稿者: komori

ふとテレビを観てたら、酒井法子やら押尾学やらのニュースを尻目に、NHKにて「佐野元春のソングライターズ」なる番組がやっていて、ほお、と見ていたら、実に面白く、かぶりつきで観覧してしまった。こんな番組がやってるとは知らんかった。NHKは時たま、こうやって実世間のいざこざから浮遊した番組やるのが、良い。

今日はゲストに松本隆が出てて、はっぴいえんどに端を発する「日本語のロック」なるものに関しての談義みたいな特集だった。今でこそ信じられない話だが、当時は内田裕也等との間で日本語ロック論争なるものが勃発していた位に、ロックに日本語詞をのせるというのは、異例なことであったらしい。

自分もまた日本語で歌詞を書く者として、これは今なお有効な、無視できぬ問題提起であると思い、なぜに己の歌詞は日本語なのかと、胸に手を当てる。

すると、まずごく単純に、英語が出来ない(思考の前提が英語ではない)からだという明快極まりない答えが第一に、出る。

そして、それは、英語が出来ない=日本語で歌詞を書く、ということは即ち、読解され、意味理解され得ることを前提に、自分の歌詞は書かれているのでは、という一つの仮定に結びつく。

そうすると、自分の歌詞はこの意味作用を読解され得る、日本語を共通言語とする、世界の中のごく少数の人間(日本人)のために書かれているのかという結論に至るわけだが、少なくとも、全くもって、そんなふうには書いていない。

例えば、私達は所謂洋楽を聴いて、感動をしたとする。英語(あるいは他の言語)にて歌われるそのうたの意は、その言語を解せぬ者にとっては、分からない。しかし、この、何か重大なメッセージを受け止めたかのような胸のドキドキは、一体どこから来るのか。

それは、強度 からだと私は思っている。歌詞というものの、その表面的な部分を捉えれば、それは紛れもなく、各々の言語という次元によって分け隔てられた、狭義なものかもしれない。しかし、歌詞を書く、そしてそれを歌うことによって生じる、その者の思考、情念、そういったものの熱量の強度というものは、全世界共通の深層意識なるものなのではないかと、思う。それらは、言語というレベルよりも、より深い層を形成するものであるのではないか。つまり、私達の原初的なパッションとでもいうべきものは、言語によって、規定、或いは分断され得ない、という希望的観測のもと、私は歌詞を書いている。

そして、そのような強度こそ、「うた」であると思う。日本語の歌詞というのは、たまたまに過ぎない。無論、だからといって、歌詞を安易な音韻的な部分にのみ還元させ、言語的意味を希薄化させるような、そんな馬鹿げたことは、したくない。本当に素晴らしい歌詞というのは、いかなる角度から捉えても(言語的な意味、字面で並べられた時の流麗さ、歌われた時の音韻的な部分、など)、同じ輝きを放ってると思う。

ところで、佐野元春って、あんまり聴いたことないんだけど、佇まいが凄い異常なオーラを放っている。喋り方も、何か、孤高を感じる。そして極めつけは、松本隆の詞を佐野元春が朗読するというコーナー。あれは、何だったんだろうか?全然、よくないのだ。松本隆も、若干何ともいえない表情で「ラップみたいですね」と一言。だが、その、何者にも侵害され得ぬナルシスティックな孤高さは、尋常じゃなかった。明日CD買おうと思う。

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