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小森清貴 solo Album『カトレア』発売中 詳細

小森清貴 Twitter @kiyotakakomori
連絡先 kiyotakakomoriofficial@gmail.com
2009/8/21 | 投稿者: komori

ずっと行きたかったゴーギャン展へ、行った。ずっと観たかった大作の「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、やはり、特に、凄まじかった。一枚の絵に世界、宇宙、そのものが封じ込められてるというのは、どういうことなのか。音楽で言えば、1曲の中に、全てが。解説みたいなコーナーに書かれていた、ゴーギャン晩年の言葉が、その何たるかを、少し教えてくれた。そのまま引用する。「私はもはや言葉を絵では表現しません。私は文学的な手段に少しも頼らず、できるだけ単純な技法を用いて、暗示的な構図の中に私の夢を表現しようとしたのだから」これはやはり、音楽も、そういうものでなければならないと、思うが、どうしてこうも表現とは名ばかりに、説明的になりすぎてしまうのか。

と、思い詰めながら、その翌日は今度イベントに出てもらう「cojo」のライヴを観に、吉祥寺へ。その日、そこに、そんな、暗示的な音楽は、あった。田畑満さんも出てた。彼等の音は、大よそ文学的な手段とは、遠くかけ離れたものであって、身体がまず反応する。

狩生さん、田畑さん等の、この日のギタープレイを観て、新しいエフェクターが欲しくなった。
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2009/8/18 | 投稿者: komori

去る8月15日、UFO発狂天国、どうもありがとう。久々に対バンのドウオカさん、シャムキャッツ、初めて観たテレーズ、葉っぱの裏側シスターズ、全部刺激的だった。こんな日にやれて、本当に嬉しい。新しい感覚のバンドに出会うと、次の10年はまた違ったものなんだな、と、わくわくする。演奏は、盆ということで、彼岸にも届くように歌った。いつも、遠くへ向けることは意識しているが、この日ばかりは、少し、余計に、意識した。遠いところばかりを意識していると、近い場所を見失ってしまう懸念もあるけど、だけど音楽はやっぱり、遠い、どこだか分からないところから聴こえてくるものだとも、思っている。目に見える世界に、理解や共感を求めるようなものは、あまり性に合わない。ただ鳴っていて、消えていくだけの、そんな音楽が聴きたい。小さいテレーズの音は、そんな音で、昔読んだ国語の教科書の「スーホの白い馬」(だっけ?)の草原にに吹く、風に、似ていた。また、9月も一緒にやる。

そして、盆明け、今日は大切な友達の命日。1年前、年下の、その彼が自ら命を絶って、それまで曖昧で漠然としていた死というものが、こんなにも、身近で、若い僕等のすぐそばにあるものなのかと、初めて、知った。そんな漠然とした巨大なものを、自らの元に手繰り寄せてしまう力を、僕等は、備えてしまっている。それはもっとも、彼にとっては、具体的な事象だったのだろうけど。大きな具体性の中に飛び込む決断。彼が自らに下した、あらゆる約束事を逃れて手にした答え。今でも僕はよく分からない気持ちになるが、でもきっとそれは正しいものだったんだと思う。悲しくはない。

ここ最近太陽はギラギラだが、風がさあっと乾いていて、気持ちのいい夏の日という感じの気候だ。8月も半ば過ぎの、この感触。ずっと、変わらない。プールの帰り道の倦怠のような。絵日記を続けられなかった、諦めのような。
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2009/8/13 | 投稿者: komori

次のライヴの話。

今週土曜UFO CLUBにて「発狂天国」という最高のイベントに出演。これはUFOの発狂チカさんがやってる目玉企画で、かねてから出演するのが夢だっただけに、非常に張り切っております。これまでにも客として何度か足を運び、凄まじいライヴをいくつも、観た。対バンも、次の10年を見据えたかのような、ラインナップではないかと。もう、2000年代も終わりなんだぜ。盆の最中、彼岸に届く、演奏をしよう。

■8/15(土)
東高円寺U.F.O CLUB
『発狂天国vol.41』
OPEN/START 18:30/19:0
ADV/DOOR ¥2000/¥2300(+1D)
w/葉っぱの裏側シスターズ(from名古屋)、シャムキャッツ、小さいテレーズ、銀閣寺(ドウオカタケシ+タマゴ[fromニプリッツ])
PERFORMANCE:筆っ娘くらぶ
DJ:発狂チカ

※出演多分3番、20時から。


ちなみに、今回の発狂天国は翌日16日にも開催され、2DAYSとのこと。更に両日来た人は発狂天国Tシャツ貰えるそうです!僕も欲しいので、日曜も行こうと思います。


映画の話。

最近、映画熱が再浮上してきて、映画を観るのが楽しくてしかたない。近所にいいレンタル屋がある。そこは、未だにVHSが中心だが、その品揃えは白眉で、そのコーナーの仕切りの作り方なんかに、店主の愛情や個性を感じる。レンタル屋に通うのは、いくつになっても、面白い。昔、早稲田に「MEIGAZA」という素晴らしいレンタル屋があってよく通っていたが、いつの間にかつぶれていた。あの大量のビデオ達は、どこへいったのだろう。



昨日は久々に映画館にも行った。神保町シアターにて開催中の「没後四十年 成瀬巳喜男の世界」。本当は朝一の『流れる』を観るつもりだったが、売り切れで観れず。しかたなく、ってわけでもないが、昼からの『ひき逃げ』を観覧。これが、素晴らしかった!ストーリーも圧巻だったけど、何せ主演の高峰秀子の眼力が凄かったなあ。映像にも関わらず、その力は、生身の人間よりリアルだった。

映画を観ていると、人間の身動きや表情、また町の景色や木々のせせらぎ、そういったものが、それらはたかが光の像に過ぎないのに、こんなにも生き生きとしていて、面白いものなのかと、驚かされる。まるで、僕等の生きているこの世界と、映像と、一体どちらが本物の現実なのかと、思ってしまうと程に。

だけど、そんなふうなことを思って、暗い映画館から真昼の町へと繰り出すと、なぜだろう、いつもと変わらぬ日常の風景が、なんだかとても、豊かなものに観える、そんな時が、ある。


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2009/8/9 | 投稿者: komori

ふとテレビを観てたら、酒井法子やら押尾学やらのニュースを尻目に、NHKにて「佐野元春のソングライターズ」なる番組がやっていて、ほお、と見ていたら、実に面白く、かぶりつきで観覧してしまった。こんな番組がやってるとは知らんかった。NHKは時たま、こうやって実世間のいざこざから浮遊した番組やるのが、良い。

今日はゲストに松本隆が出てて、はっぴいえんどに端を発する「日本語のロック」なるものに関しての談義みたいな特集だった。今でこそ信じられない話だが、当時は内田裕也等との間で日本語ロック論争なるものが勃発していた位に、ロックに日本語詞をのせるというのは、異例なことであったらしい。

自分もまた日本語で歌詞を書く者として、これは今なお有効な、無視できぬ問題提起であると思い、なぜに己の歌詞は日本語なのかと、胸に手を当てる。

すると、まずごく単純に、英語が出来ない(思考の前提が英語ではない)からだという明快極まりない答えが第一に、出る。

そして、それは、英語が出来ない=日本語で歌詞を書く、ということは即ち、読解され、意味理解され得ることを前提に、自分の歌詞は書かれているのでは、という一つの仮定に結びつく。

そうすると、自分の歌詞はこの意味作用を読解され得る、日本語を共通言語とする、世界の中のごく少数の人間(日本人)のために書かれているのかという結論に至るわけだが、少なくとも、全くもって、そんなふうには書いていない。

例えば、私達は所謂洋楽を聴いて、感動をしたとする。英語(あるいは他の言語)にて歌われるそのうたの意は、その言語を解せぬ者にとっては、分からない。しかし、この、何か重大なメッセージを受け止めたかのような胸のドキドキは、一体どこから来るのか。

それは、強度 からだと私は思っている。歌詞というものの、その表面的な部分を捉えれば、それは紛れもなく、各々の言語という次元によって分け隔てられた、狭義なものかもしれない。しかし、歌詞を書く、そしてそれを歌うことによって生じる、その者の思考、情念、そういったものの熱量の強度というものは、全世界共通の深層意識なるものなのではないかと、思う。それらは、言語というレベルよりも、より深い層を形成するものであるのではないか。つまり、私達の原初的なパッションとでもいうべきものは、言語によって、規定、或いは分断され得ない、という希望的観測のもと、私は歌詞を書いている。

そして、そのような強度こそ、「うた」であると思う。日本語の歌詞というのは、たまたまに過ぎない。無論、だからといって、歌詞を安易な音韻的な部分にのみ還元させ、言語的意味を希薄化させるような、そんな馬鹿げたことは、したくない。本当に素晴らしい歌詞というのは、いかなる角度から捉えても(言語的な意味、字面で並べられた時の流麗さ、歌われた時の音韻的な部分、など)、同じ輝きを放ってると思う。

ところで、佐野元春って、あんまり聴いたことないんだけど、佇まいが凄い異常なオーラを放っている。喋り方も、何か、孤高を感じる。そして極めつけは、松本隆の詞を佐野元春が朗読するというコーナー。あれは、何だったんだろうか?全然、よくないのだ。松本隆も、若干何ともいえない表情で「ラップみたいですね」と一言。だが、その、何者にも侵害され得ぬナルシスティックな孤高さは、尋常じゃなかった。明日CD買おうと思う。

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2009/8/6 | 投稿者: komori

ホント、いいなあ。


今日はマッチング・モール『そっくりモグラ』を購入。ソフト・マシーン脱退直後の、71年発表の作品。全体を覆う初期ソフト・マシーンを髣髴とさせる、ユーモアに富んだアヴァン・ジャズも良いが、何せ1曲目の「オー・キャロライン」に、やられる。ソロ作『ロック・ボトム』の1曲目「シー・チェンジ」もそうだけど、第一声で、昔読み聞かせられた、お伽の国の風景が広がっていく。そして、同時にその風景は、今となっては決して取り戻せないものだという、冷徹な諦念も感じられる。今にも壊れそうな世界の、断崖絶壁で放たれてるかのような、祈り。

壊れかけの世界から放たれる、最後の歌。伸びきったカセットテープから聴こえるような、ノイズまみれで、細切れな、声。そんな願いをこめて「壊れかけのテープレコーダーズ」という名を思いついた、今からちょうど2年前。徳永英明では、決して、ない。

ライヴ活動開始から、2周年目の、8月。

ロバート・ワイアット、集めよう。
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