僕が初めてマンガの単行本を買ったのは、小学3年生の時でした。忘れもしない「トイレット博士」の第1巻でした。
それからお小遣いでせっせとマンガを買い、マンガの魅力に取り憑かれ、元々絵を描くのが好きだった僕は「将来は漫画家になろう!」と決めました。漫画家こそが世界で1番カッコイイ職業だと思ったからです。
それで僕は「漫画家入門」「マンガの描き方」というような本を何冊か買いました。それらの本に必ず書いてあったのが、マンガを描くために必要な道具類でした。
定規には硬貨を貼って浮かせると線をひいた時にインクがにじまないとか、消しゴムのカスは羽ボウキを使って取るとか、流線は雲形定規を使うとか、Gペンはこんな線で、丸ペンはこうで、かぶらペン(スプーンペン)はこうでとか、インクは製図用インクを使うとか、直線はカラス口を使うとか、様々な道具と使い方が書いてありました。
そうか、赤塚不二夫先生も、藤子不二雄先生も、みんなこういう道具を使っているのだなと思い、マンガを描く道具を集めました。それらの道具も、僕の目には実に魅力的に見えました。
しかし、小学3〜4年生の行動範囲というのは、とても狭いものです。それらを買うのは、学校の通学途中にある文房具店でした。他の画材屋さんがどこにあるのか、全くわかりません。その通学途中にある、いつも割烹着を着た優しいオバちゃんがいる文房具店が僕には全てでした。子供が2〜3人ぐらい入ると一杯になってしまう、小さなお店でした。
このお店で、僕はスプーンペンやGペンや丸ペン、製図用インクに羽ボウキ、雲形定規にカラス口などを買いました。カラス口など小学生にとっては超高級品で、当時でも1,800円から2,000円もしました。「ホワイト」と呼ばれる、修正に使うポスターカラーも買いました。大抵の物は、そのお店にありました。
本には「マンガを書くのはケント紙。これを全紙サイズで買って自分で切ると安い」と書いてあったので、オバチャンに「ケント紙の全紙ちょうだい」と言ったら、巨大な紙を渡されてビックリ仰天いたしましたが、それを丸めてもらって家まで持って帰ったのを憶えています。
そして、本には「細かい模様はスクリーントーンを買って貼ると良い」と書いてあり、様々な模様のスクリーントーンの見本が載っていました(詳細は
こちらを参照)。
そういえば、これらスクリーントーンの模様は、様々なマンガに出てきます。洋服の模様だったり、陰影だったり、座布団だったり、空だったり、壁の模様だったり。その良く見る模様が「スクリーントーン」という物を使ったものだと知りました。
これを自分のマンガに使いたい!と僕は強烈に思いましたが、気になったのは、スクリーントーンは、1枚で何百円もするという記述があった事です。当時は1975〜76年頃で、大卒初任給が8万円台だったそうです。そんな物価の時代に、たった1枚で数百円という値段は、小学生には高いものでした。これでは何種類も買えません。
それでもある日、僕は千円札を握りしめ、いつもの文房具店に行きました。これで1枚でも2枚でもいいから、スクリーントーンを買うんだ!とコーフンして行きました。
文房具店の戸をガラガラと開けると、オバちゃんが出てきました。
「あら、いらっしゃい」
「オバちゃん、スクリーントーン、ある?」
僕はきっと期待に胸を躍らせ、コーフンしていたと思います。
しかしオバちゃんの答えはこうでした。
「なあに?それ?」
オバちゃんのお店で、僕は色んなペンを買った。ケント紙も買った。製図用のインクも買った。カラス口もこのお店にあった。羽ボウキも雲形定規もあった。「漫画家入門」に書かれていたものを、ここでたくさん買った。
でも、スクリーントーンだけが、ない。
オバちゃんにスクリーントーンがどんな物なのか説明しても「そういうのはうちにはないわねえ」と言うだけです。
ショックでした。このお店にないという事は、僕にとって、世界中のどこにもないのと同じです。いや、東京では売っているのでしょう。でも僕が住んでいる仙台では、きっと売っていないんだ。
僕は諦めきれませんでした。そして、どうしたかというと、しばらくしてから、またその文房具店に行き、オバちゃんにさりげなく「ねえオバちゃん、スクリーントーン、ある?」と聞いたのです。
もしかしたら、オバちゃんは「あ、そうそう、うちにもあったわよ」とスクリーントーンを出してくれるのではないかと、儚い期待をしたのでした。
しかしオバちゃんは「なあに?それ?」と僕に言ったのです。
ここで僕はスクリーントーンを泣く泣く諦めました。このお店にないのですから、もう手に入れるのは無理なのです。他の画材屋さんでは売っていたのでしょう。でも当時の僕には、このお店が全てでした。
「プレイボール」や「キャプテン」を連載していた、ちばあきお先生のように、スクリーントーンをほとんど使わない漫画家の先生もいましたので、僕はその背景の線などの真似をして描くようになり、背景などの線を描くのが得意になったのですから、その点では良かったのかもしれませんが、やはりスクリーントーンへの憧れは持ったままでした。
漫画家になりたいと思い続けた僕は、その後もマンガを描き続け、いつの間にか小学6年生になり、それでも描き続けていたある日、ビートルズを聴いて天地がひっくり返り、中学に入るとペンの替わりにギターを持つようになりました。
すっかりロック少年になり、東京の高校に入学したある日、東急ハンズだったか、どこかの画材屋さんだったか、ふと入ったお店で、たくさんのスクリーントーンを見つけました。
ああ、やっぱり売っていたんだ。あんなに憧れたスクリーントーン。この光景を、小学生だった僕が見たら、どう思っただろうか。こんなにたくさんのスクリーントーン。
僕は18歳頃から、またマンガを描くようになりました。友達だけに見せる、超内輪ウケの内容です。登場人物は全部バンド仲間や友達ですが、みんな自分たちが出てくるバカな内容のマンガを読んでゲラゲラ笑っています。その量は、ノート5〜6冊分にもなりました。今の僕には、こういうマンガの描き方が、いちばん相応しいです。
その後、自分のオリジナル曲を収録したカセットテープのジャケットを自分で描くようになり、もちろんスクリーントーンも使いました。今はみんなパソコンでジャケットを作り、プリンタで印刷しますけれど、20数年前はデモテープ用に手書きでジャケットを作って白黒コピーし、配る人も多かったのです。スクリーントーンを切って貼るのは、僕にとって実に楽しい作業でした。
僕が生きているうちにタイムマシンが発明されたら、たくさんのスクリーントーンを持って、あの頃の僕にプレゼントしてあげたいですねえ。
どんなに喜ぶでしょうね、僕。