ベン・フォールズが、ニュー・アルバムの音圧を改訂したヴァージョンのCDを発売するそうです(詳細は
こちら)。
本人のコメントによると、新しいアルバムは流行に沿って意図的に音圧を大きくしたのですが、自分のファンはハイファイ愛好家であるために、あまり圧縮されていない状態で聴きたいというリクエストが多くあり、その人たちのために、昔ながらの静かでダイナミックな音圧のアルバムも出す事にしたそうです。
詳しくない方のために簡単に説明いたしますと、近年の多くのCDは最大限と言っていいレベルにまで音圧が上げられておりまして、それによりラジオやテレビやカーステレオなどで音楽が流れても、音が塊になっているので聴きやすいというメリットがあります。大雑把に言いますと、全ての音がデカイので、力強い迫力のある音で聴けるという事です。
逆に、そうした事による欠点もあり、音の強弱によるダイナミックさが死んでしまいますし、延々とフルボリュームに近い状態が続く事により、聴き疲れもいたします。音圧を上げるのも、諸刃の剣という事です。
コメントで「圧縮」という言葉が使われていますが、これはパソコンのファイルなどを圧縮するという意味とは違いまして、音量差によるデコボコを均一に慣らすという意味です。レコーディングの現場では「音をツブす(潰す)」という言い方をしますが、音圧を上げるためには音量のデコボコをツブし、なるべく均一にする事が必要不可欠になるわけです。これにより全体の音量を上げる事が可能になります。
90年代頃から発表されたCDから、エコー類が極端に減ったのは、音をより直接的にするためでもありまして、部屋の鳴りとか空気の響きなども含め、以前と比べるとあまり重視されなくなりました(もちろん今でも響きを追求している人たちはいますが、音の鳴りの事よりも、特にアマチュアの世界では音圧を稼ぐ方法を知りたい人の方がずっと多いように思います。電子的にエコーをかける事は誰でもすぐにできますが、プロが手掛けたCDのように音圧を稼ぐ事はとても難しいからです。もちろん本当はエコー類のかけ方もセンスが問われる深い世界です)。
残響を少なくすると、音が耳の近くで鳴っているような効果が得られます。残響を少なくして音圧を上げると、音が埋もれにくくなるのですけど、このサウンドは現在でも大流行し、時代の音となっています(世界的に見ると、もうこのサウンドから抜けかけているアーティストやエンジニアもおります。もう制作現場ではこのサウンドに飽きている人もきっといると思いますが、とにかく音圧を上げろ上げろと命令する人もいるという現実もあります)。
自宅で気軽にレコーディングできる現在では「音圧競争」という言葉も普通に使われているほどなのですけど、ベン・フォールズは、その音圧を下げた、いわば時代に逆行するマスタリングのCDも発売するそうなのです。
僕は自宅にミキサーとマルチのテープレコーダーを買って録音やミキシングを始めてから30年になりますが、アナログ・レコーディングの頃は今のように音圧をさほど気にする必要はありませんでした。というのも、アナログの場合はテープに録音する時に歪むギリギリまでレベルを上げる事により、自然と音圧が稼げていたからです。
当時のレコーディング関係の書籍でも、音圧の上げ方などはほとんど取り上げられる事はなく、録りの段階でもミキシングの段階でも録音レベルは最適にするとか、トータルのリミッター(音量のピークを抑える機材)のかけ方の解説がある程度でした(当時はレコード盤でしたので、音圧を上げすぎるとレコード針が飛ぶ可能性もありました)。
デジタル・レコーディングに移行し始めた頃、僕の周りでも音圧の事が良く話題になりました。アナログ時代に比べると、楽器のアタックの音は鋭くなったものの、音がパンパンになるだけで気持ちの良いサウンドにするのが難しいという現実と直面し、四苦八苦したわけです。アナログ時代のような音圧の稼ぎ方は通用しませんでした。テープに録音する事で音にクセが出て、それを気持ちの良いサウンドにするために活用するというノウハウも使えなくなりました。
世界中のスタジオのエンジニアたちもデジタルと格闘し、試行錯誤の末、現在主流になっているサウンドへたどり着いたとも言えるわけですが、年月と共にCD自体の音量も少しずつ稼げるようになり、今ではレベルメーターが0db(デシベル)のまま動かないほどのミキシングやマスタリングが可能になりました。音圧だけの視点から見ると、ひとつの到達点とも言えます。
しかしそうなると、音の強弱(ダイナミックさ)を捨ててしまう事にも繋がるわけで、轟音のロックなどには都合が良い場合も多いのですが、全ての音楽に適しているわけではありません。
ベン・フォールズの元にも、こうした最大限の音圧によるCDではなく、もっと自然に聴きたいというリクエストが多く届き、それらの声に応える事にしたそうなのです。
僕はこのベン・フォールズの行動にとても驚き、また感激いたしました。このように音圧を下げたCDをわざわざもう1種類発売するというのは、前例がないように思います。これは勇気のいる事ですし、市場の混乱をも引き起こしかねませんが、それでも発売するという事は、それ相応のきちんとした理由もあり、また信念を貫いた結果だと思います。これは画期的で凄い事です。僕はこのベン・フォールズの行動に大きな拍手を送ります。
このニュースは、近年流行しているバキバキの音圧のCDに疲れてしまう事がある僕にとっては、ホッとすると同時に、これによりもっと音楽的に心地良いサウンドの追求や、その技術の開発につながるかもしれないという希望をもたらすニュースでもあります。
大聖堂やホールなどは音の響きを重視して設計されておりますし、レコーディングの世界でも、狭い部屋で多人数で演奏する事による音の壁や、ホテルやお城などでレコーディングしたりなど、今までに様々な工夫や試行錯誤をして来たわけですが、そろそろ音圧を稼ぐために犠牲にしてきてしまった空気感や鳴りや音量差による繊細さなどを、少し思い返しても良い頃になったのではないかと思うのです(もちろん盛大にエコー類をかけろという意味ではなく、音圧競争により音量が均一になってしまったサウンドに、ダイナミックさや心地よい鳴りを、より進んだ形で取り入れる事ができないかという意味です)。
音圧競争の時代よりも、もう少し先に行ける時代が来たような気がしますし、実際に海外では、ベン・フォールズのように音圧よりもダイナミックさや心地よさを重視する動きが始まっているようです。
そろそろ過剰な音圧至上主義は一段落させて、先人達のノウハウを活かした新しい技術によるサウンドを追求する時代になれば良いなあと思います。そう考えるだけでワクワクします。
そんな事を考えながら、本日もミキシングの作業に入ります。