自分でいうのもおかしな話だが、ここ12年間与えられ続けていたヨハネ12:24、一粒の麦、あの聖句の意味が分かった。もちろん主イエスの死を現すのであるが、教会を成長させたいという私も死んだ。ああ、この聖句はこれを意味していたのだな、と今感じる。主はこれを望んでおられたのだなあと感慨深げに思う。大切なのは、主イエスの十字架の愛と赦し、そして魂への愛、この2本立てでやっていこうと思った。伝道にしても、何か教会を増やそうとしているようで嫌だった。しかしそういう思いは一切消えた。
これからはまことの奉仕ができると思う。
『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。』2コリント5:15
遅ればせながらのなんという解放、なんという爽快感。

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