本来、十字架はキリストの十字架一本か無限(殉教者たちの十字架、犯罪者たちの十字架)にあるものだが、あえてガラテヤ2:20と表現は違うが、二本と考えてみよう。
一本目の十字架はキリストの十字架。私たちの罪を赦し永遠の命に導くものである。
もう一本の十字架は、わたしの十字架。私が己(自己)に死に、神に生きるものである。一つ目は未信者や罪を犯した者のためにあるもので、もう一つは、信者の、罪からの解放である。すなわち、一つ目は赦し、二つ目は解放なのである。この二本目の十字架に気づけば勝利である。でもガラテヤ2:20から見れば十字架は一本である。(どうも、私にはまだ見えていない部分があるようだ。)
『私はキリストとともに十字架につけられました。』ガラテヤ2:20
PS:見えていなかったのは、一本目と二本目の十字架の間、三本目の十字架である。背負うべき十字架だ。これはキリスト者だれにでもある。純

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