教会では、全員が聖書を自分で読めるようになることを目指している。預言書などは時代背景がわかれば読めるものだが、一番難解なのは、福音書である。私も十字架がわかるまで福音書がわからなかった。しかし十字架がわかったら、あれ不思議。全部わかるではないか。(全部と言っては言いすぎだけど)とにかく旧約はイエスの十字架を指し示し、新約はその成就だ。旧約で認罪した罪を新約で赦すのである。それでは山上の垂訓はどうなるの?あそこは救われたら守りたくなる箇所なのだ。あそこを守ったから救われるということは絶対にない。さらに行くとあそこを守れなかった人が認罪意識を感じて十字架に飛びつくのである。つまり山上の垂訓をはじめとする新約律法は、旧約の役割も持っているといえよう。つまり十字架はすべての人のすべての罪を赦しているのである。あとはこちらの信仰の問題だ。これを「恵みの充全性」という。他にも考えがあるならばコメントください。なお拍手マークは無料です。純

2