普通、十字架とはキリストの死によって罪赦されるものであるがもう一面ある。それは私たちが十字架につけられる、ということである。つまり己の死である。これが成就すれば私たちは晴れて生きた死人となり、隣人の中傷や問題が何ともなくなる。これは主にきよめ派が言われることであるが、私はきよめ派ではないが多くの問題がこれで解決されている。また自分の罪からも解放される。私たちはどんな努力をしても罪から解放されないが、この真理がわかって自分を十字架につけるなら、もう罪はないのである。
『私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』ガラテヤ2:20より

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