左上の、ブログ村 のクリックありがとうございます。
タイトルのスピリチャルですが、漢字で表現すると霊的とでもなるのでしょうか。
これを重く受け止める人と、軽く、または怪し気な目で見る人と分かれると思いますが、僕は、人の根本的な物ととらえております。軽く見る人は、その人にまだその人生においてそのような体験が備わってきてない人か、悪く言う評論に乗っているのだと思います。悪いというわけではありません。
この霊的な事に関して、今日は現実面から書いてみようと思います。
僕は30才の頃から、自分のこれまでの人生、性格を反省し、何でも”知ってる”と言わなくなりました。それまでは、自己主張をしたい気持ちや、おしゃべりな部分があったので、結構、結果的に知ったかぶりをする事も多々あったと思います。
それで、最近あった出来事を1つ。
居酒屋で、僕は知人の67才のかなり先輩の方と飲んでました。もう帰ろうとした頃、その息子さん(38才独身)が来まして、延長して飲むことになりました。
そんな中で、僕は居酒屋の主人に魚の専門的な事を聞きました。ところが、主人が答える前に、右横にいる息子さんが「それは、どうのこうの〜〜!」と答えてくれるのです。笑
しかし、僕が聞きたい事、聞いた事は、もっと専門的な事なのです。息子さんは的外れな事を隣でしゃべり続けます。そういった事が何度もくり返しされたので、僕は息子さんに「僕はマスターに聞いているんだよ」と言いました。注意したといった方がいいかもしれません。
さて、この場面ですが、実は、僕はもう3年前ほどからこの息子さんとも、たまに飲むのですが、いつも彼の話を聞いてあげるのです。それは自分の知っている事も知ってない事も全てです。自分の知っている、そして知ってるどころかその分野に自分がとても詳し事でも聞いています。「おお〜 それオレ詳しいよ。そうだな〜こうだな〜、いや違うよ!こうだよそれは。& オイ!あなたおかしいんじゃないの? 僕の職業知ってるでしょ?!僕はあなたがカシオに勤めていると知っていて、あなたにカシオの事を専門ぶって話ししたり、教えたりしないよ!!」と言いません。(笑)ただいつも殆ど彼の話したい事を、ふむふむと聞いてるだけです。(全部話しを聞いてからこちらから話すようにしています。もちろん途中に返事を求められたらもちろん普通に答えます)
そうすると、中には、彼のように勘違いする人もいるのです。どう勘違いするかといえば、この人は何にも知らない人だとです。(正解ですけどね)
そういった人ですから、ご主人に質問した事でも、なんだこの人はこんな事も知らないのかと、決めつけ&勘違いして、内容も浅くしか取らずに横から口を挟んでくるのです。
これを読んでよくある事だと思いますか?そうそう私の周りにもそういう人いると思いますか? みなさんはどう対処します?
まあ、これは、たわいもない日常のある出来事の1コマですが、結構、こういう人が多いのです。(最近、増えているように感じるのは僕だけでしょうか?)
しかし、出来てる人は違います。ちゃんと、(この人は知ってて黙っている人かもしれない)と思い謙虚に話をされます。& 僕のような無知な者の話も最後までじっくりと聞いて下さいます。今回の息子さんのような人は、人の話をよく聞きません。聞いていても途中で話の腰を折り、中断させ、的違いな話をします。そういった事が多いです。
これでやっとスタートに戻りますが、
僕はこういった時に、霊的な物を感じるのです。
単なるその人が頭の悪い人と思わないのです。(言葉が良くないですが)
こういった時、僕は霊的に未熟な人、霊的に関して未体験な人と感じるのです。
もっと言えば、過去世で積んできたものが浅いとも思います。(今世だけでなくて)
言いたい事が書けたか自信がありませんが、伝わりましたでしょうか。
他の例を上げますと、音楽でも、最近僕が興味を持った神社&神道に関してもそういった事があります。
音楽でも神道でも沢山の事柄があります。分かりやすく説明しますと、大きな音楽という円があり、その中に小さな円が10個あります。(思い描いて下さい)小さな円には、絶対音感、相対音感、作曲、初見、聴音、演奏能力、歌唱力、楽理、、、といろいろあり、どんな大音楽家でも全部パーフェクトという事はありません。
どの分野が優れているから、この人はこの人より優れているとは言えません。決めれません。ましてや、楽理などの知識はあとでも本を読めばすぐに「知る」事になります。楽理を知らない人だから、この音楽家は才能がなく大したことないと決めれませんし、軽蔑するものでもありません。ただ、まだ、その事について知らなかっただけです。翌日、知って、軽蔑した人と並んでしまうようなものです。その楽理の中にもそれこそ沢山の事柄があり、軽蔑した人もまだ知らない事はあります。逆に軽蔑された人がそれを知っているという事もよくあることです。ですから、もし教えてあげる時でも、優しく話してあげることが大切です。
神道もしかりです。なんでもそうです。
しかし、世の中にはある一面だけを見て、この人は詳しくない人だ、不得意な人だと決めつけて、もしかして本人よりもずっと上の人に失礼な言動をする人がいるのです。
そうならない為に、僕は、あまり喋らず、よく聞くようになりました。これも僕自身の数々の苦い経験から会得したものです。
お陰で、いろんな多くの事柄を学ぶ事ができます。ああ、、それ知ってるよって言ってしまえば、それ止まりになるものが、その後の話で自分の知らなかった事が出てくるということが多いのです。
馬鹿にする人に対しては心の中で(可哀想な人だ。この人もいつか分かる日が来るように)と祈ってあげるようにすれば良いですね。
今回、初めてでしたが、僕は息子さんに対して注意しました。しかし、その発言する時に、怒りに似た感情がゼロでなかったのです。これがゼロになれたらなと思うこの頃です。それでも長年意識しているとかなりゼロに近付く時もあります。
こういった事は、自分の子供にはゼロで接する事ができます。やはり愛ですね。他人にも同じ様にゼロで接する事ができたら、それが悟りというものなのでしょう。
そうそう、最近、五日市 剛さんの、『いやな時にでも、ありがとうと言う』ですが、お陰様で言えるようになってきました。今回も息子さんらと別れてから言いました。これからはもっと直後に言えるようになりたいです。
何ごとも謙虚に、そして継続は力なりですね。
(この文はメインHP内、コメントコーナーからの転載です)