先日の日曜は自分が役者であることをしばし忘れた。困ったときの友に来てもらって
一緒に大道具を製作した。
友人は演劇とは無関係の人間である。もちろん大道具なんて作ったこともない。しば
らくはぼくの作業を見てもらうことにした。ぼくは材木を斜めに切り落とし手早く打
ちつけて、骨組みの歪みを修正した。「ふーん」友人は感心した。「演劇のセットっ
てそんなに丁寧に作るものなんだねえ。」「違うよ。」ぼくは答えた。
ぼくは昔、ぐにゃりと曲がるセットで芝居をしたことがある。「そこ触らないで!」
セットを作った役者が言った。「なんで曲がらないように作らなかったんだよ?」「
そんなこと言ったって」そいつは開き直って言った「ぼくはプロじゃありませんから
。」なるほどね、と思った。しかしぼくもプロではない。道具の作り方なんて誰にも
教えてもらったことなんてない。見よう見真似で始めたのだ。だけどぼくはぐにゃり
と曲がるセットなんて作らない。そんなもん作るくらいなら自殺したほうがましだ。
補強の材を打ちつけていると友人がさっと動いて黙って押さえた。大事なのはこれだ
。経験があるとかないとかそんなことは関係ない。大事なのはこの呼吸である。この
心意気である。彼は雨の中自転車を漕いで来てくれて文句ひとつ言わなかった。ぼく
は彼を誰でもいいから呼んだのではない。
釘を打つぼくの手つきをじっと見ながら友人が言った。「大昔の人は釘を使わないで
建物を建ててたってホントなの?」「そうだよ」「それって技術が発達してなかった
からなの?」「違うよ。」金属と植物は相性が悪い。時間が経つと木は縮んだり伸び
たりするし釘は錆びて劣化する。だから歪みが生じて使い勝手が悪くなる。固い金属
を打ち込んで無理矢理くっつけてしまえばいいというのは西洋式でありまた現代的で
ある。われわれの祖先はそうは考えなかった。丈夫で長持ちする道具を作ろうとする
なら秘訣はなるべく違う素材を合わせないことだ。異なる物質を組み合わせれば必ず
そこに無理が生じる。木と木を組み合わせて道具を建てるのは究極の技術だ。風雨に
晒され膨らんだり縮んだ木材はより強固に噛み合ってゆく。古代人の知恵を思うと、
どこまでも頭が下がる。
友人が帰ったあと、ぼくは缶コーヒーで一服しながら自分の作った道具をゆっくり眺
めた。自己満足的だけどぼくはこの時間が好きだ。眺めながらここの取り付けは我な
がらあっぱれだとか、ここはもっとこうすればよかったとか、次の作業でここを修正
しようとか、つらつら考えるわけである。
劇団から託されたこの道具(かなり特殊な道具である)の作り方をぼくは知らない。
ほんとに知らないのだ。だけど手は知っている。作りかけの道具を手で触っていると
魂(としか言いようがないよ)の奥のほうからなにかがやって来て次になすべきこと
を教えてくれる。たぶん、ぼくの魂の奥には職人の血が流れているのだと思う。父は
鋳物職人だったし親戚の叔父さんは木工職人だった。会ったこともない母方の祖父は
建具師だった。ぼく自身は職人にはならなかったけど、そんなこととは関係なく彼ら
の魂はぼくの中に埋まっている。そして道具を作っているとその血を感じる。どんな
感じがするかって?この血は熱い。心臓が痛くなるくらい熱いのだ。取り出してお見
せできないのが残念である。

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