2010/7/18  6:38

自分と向き合う    セラピスト

私にとって・・

 ブログに記事をアップしたり・・
 mixi日記をアップしたり・・コミュに書き込んだり・・
 チャクラを開けたり・・している時、

というのは・・
「自分と向き合っている時」です

大切なたいせつな時間、です。


さて、こちらも。


***********************************

立花大敬氏「大宇宙合格!」より、道元の悟りの書といわれる「正法眼臓」を紹介します。5回目です。

(本文)
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちいず、しかあれども諸仏なり、仏を証しもてゆく。


(解釈)
仏様が仏として活動なさっている時、「オレは仏だ。迷うているお前たちがホットケんから救うてやるぞ」などという仏である意識を持って活動しているのではないというのですね。

そんな“オレ”が脱落して(無我)、我を忘れて行動しているから仏様(ホドケさま)なんですからね。

オレがホドケてなくなったら大宇宙と生き通しになります。そうすると面白いですね。今度は宇宙全体が働きだして、サーッと焦点をつくるのです。

その宇宙全体の焦点が新しい我(真我)で、その焦点に宇宙全体の智恵やパワーが集まってきて、その新しい我を基地として現れ出す(これが証)ようになるのです。

仏様は人生のすべての場面において無我無心に行動できるのですが、ふつうの人はそんなわけにはいきません。

その人の特性にあわせて、ある場面でだけ無心に行動できるとなった人が、いろんな分野で活躍していらっしゃる“達人”と呼ばれる方々です。

ある人は文章を書く場において、ある人は野球の場において、ある人は武道の場において・・・、この「無我→真我→表現(現成)」のプロセスのコツを体得しておられるのです。

秀才と天才との違いを考えてみましょう。
秀才とはその人が秀でた能力を持っていらっしゃって、その自分の力で仕事が出来る人のことです。

それに対して、天才というのは、その自分を無くすことによって、天(宇宙)とつながることができ、天から必要な能力となり、パワーなりが降りてきて、それらの力を自らの肉体を通して現わし出してゆける人のことです。

秀才は自分の能力で仕事をする人ですから、いつの日か限界に達してそれ以上の仕事が出来なくなりますが、天才は自分の力で仕事をするわけではなく、自分はいつもカラッポで、カラッポだからこそ、必要なときに必要な能力やモノ、人などがいくらでも流れ込んでくるのだから、ガンジス川の河原の砂粒の数を数えつくして尽きるとも、その才能は尽きることはないのです。

それで、禅の方には「無一物中無尽蔵」などという言葉があるわけです。


秀才の道というのは、持って生まれた自分の筋肉、頭脳、性格などの能力で仕事をするわけですから、万人に可能なことではありません。

しかし、天才の道というのは、自分がやってやろうというわけではなく、その“自分”というものに愛想が尽きて、自分をやめてしまった時に、天から流れ込んできて、その人の個性にあわせた形で発揮される才能ですから、誰でも使うことができる才能です。

それぞれの人にふさわしい独自の才能が天に用意されていて、自分に頼る生き方を辞めれば、すぐ天才が降りてくるのです。

***********************************

こういう感覚が、よみがえってくる時でもあります。





コメントを書く


名前
メールアドレス
コメント本文(1000文字まで)
URL




teacup.ブログ “AutoPage” byGMO