「今度は家族を連れ必ず来ます。家人やこどもたちにこの震災を見せておきたいですから」。
10月22日の宮崎県石巻市でのライオンズクラブの復興支援アクティビティを終え、現地、石巻中央LCのL.阿部に申し、握手で別れました。こどもの受験、卒業などもあり、その約束がなかなか果たせず、また、日程調整も上手にいかない。
東北行きを決めたのは、3月30日。31日に家族に、4月1日から東北へ行くことを打診しました。そして、こどもたちに言いました。
「しっかり見てほしい。被災地と強く生きる人たちを」。
4月1日、21:30、名古屋から深夜バスで仙台へ出発。乗り物酔いが酷いことと、バスの座席がばらばらになることに不安を覚えていた次男。すぐに就寝した様子で、安心しました。2日6:50に仙台到着。レンタカー会社がオープンする8時まで時間をつぶし、レンタルし次第、海沿いを走るべく塩竃、松島経由で、阿部さんがいる石巻市を目指す。途中、伊達公にご挨拶するため、松島の伊達家の菩提寺、瑞巌寺に立ち寄りました。瑞巌寺の参道に示された、津波の到達点表示。寺の門前、数メートルで津波が止まっていました。やはり先人は、津波のことを良く伝え、知っていたのでしょう。
塩竃市、松島では、細かく目を凝らさないと地震や津波の痕跡は見られないほど、片付けや復興が進んでいます。しかし、石巻市に徐々に近づくに連れ、半年前のなんら変わりない、半壊の家、残された瓦礫、水没したままの田畑が目立ち始めます。多数の戦闘機が流された、自衛隊の松山基地の近くに差し掛かったとき、目を覆う風景の住宅街。瓦礫もそのまま残されたままの大破した団地でした。おそらく、被災当時と何も変わらない光景です。
車内ではしゃいでいたこどもたちも、その光景に言葉を失いました。写真はないのですが印象的だったのは、その団地の入り口にある半壊した家。壁にペンキで多くの花々が描かれ、「MY HOME!!」と大きく書かれていました。多分、その内の家族が、「ここが幸せな日々を過ごしてきた、私たちの家である」ということを描いたものだったのでしょう。
廃墟のなかに、そのカラフルな花の家。その落差が、なんとも言えない切なさを感じさせます。
当初、遠方の車内からその廃墟を見ていた僕ら。僕がゆっくり団地内に車を進めると、長女が不安げに言います。
「入っていくの?」
助手席の家人の表情も不安げ。
「入ってしっかり見て行こう。僕らはしっかり見て、事実を知らないといけないと思う。そして、忘れないこと。まだまだ復興なんてしていないことを」。
団地へ続く道、小さな橋沿いに無数の小さなこいのぼりが飾られています。欄干には、手向けられた花々。多くの住人の方が犠牲になったのでしょう。
瓦礫が残る住宅地のど真ん中に車を止めました。
「外へ出よう。」
こどもたちは、何ていうことをお父さんは言うのだろうという顔で、僕を見ていました。
「車のなかじゃ、しっかり感じることができないだろう。全員、降りましょう」
僕が先に折り、被災した住宅地に一礼し、空間全体にしっかり手を合わせました。遅れて降りてきた家人、こどもも、僕に連れて手を合わせました。
こどもたちは暫く足の赴くまま、住宅地内を無言のまま見ていました。そして、3人とも、大破した門のあるお宅(基礎しか残っていない)で止まり、ずっと帰ってこない。迎えに行くと、こどもたちの視線のある場所に、花束が手向けられていました。
「ここでも誰かが亡くなったんだね」。
家人はすでに涙をハンカチで拭っていました。


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