『プープー・・・』
利生は、ゆっくりと電話を耳から放した。真美が手首を切った事が、それほど大それた事に感じなかった。と言うより、自殺紛いのような事を、間近で経験したのが初めてだったので、実感がないのと、どう対処していいのかが、瞬時に思いつかなかった。
本当に切ったのかな?嘘だったりして・・・でも、本当だったとしたらヤバくねぇか?出血多量とかで死んじゃうんじゃねぇか?
駅前に立った状態のまま、利生はそんな事を考えて、とても焦りを感じた。そして、利生は真美に電話をかけ直した。しかし、応答はなく、何度もかけ直したが一度も応答はなかった。そんな事を繰り返していると、利生の焦る気持ちはどんどん増していった。利生は一度出た改札口を再び通り抜け、真美の友達の有香に電話した。
「有香ちゃん?今、真美から電話があって、手首切ったって言うんだよ!『私死んじゃう』とか言って、んで、いきなり電話切れて・・・とりあえず、今、真美んち向かってんだけど・・・」
利生はそう言いながら、駅のホームの電光掲示板を、焦るように眺めていた。
「え!?どういう事!?意味わかんないんだけど」
有香は、かなり驚いている様子だった。
「俺だって、意味わかんねぇよ」
利生が、そう言うと同時に電車が来た。
「とりあえず、電車来たから切るわ」
「・・・分かった、私も真美に電話しながら、真美んち向かうよ」
有香が、状況をなんとか把握したかの様に言った。
真美のアパートの最寄り駅に着くと、駅から3分程の真美の家に走りながら、真美に電話した。相変わらず応答はなかった。すぐに有香に電話したが、有香も応答がなかった。真美の家の玄関の前まで来て、呼び鈴を鳴らした。心臓がドキドキする利生の背中を、ほこりがかった街頭が薄暗く照らしていた。応答がないので、もう一度呼び鈴を連打し、玄関の扉を叩いて、「真美?」と叫んだ。
「はい、はい、はい」
中から大きな有香の声と、こちらに近付いてくる足音がした。玄関のドアを有香が開けた。
「私も今着いた所。傷は大したことないみたい。今、手当てが終わった所なの」
有香が、安堵の表情を浮かべながら言った。
「そうなんだ」
利生が胸を撫で下ろした。
「とりあえず、上がってあげて」
有香が利生を招きいれた。中に入ると、真美がベットにもたれ掛かって、床にべったり座っていた。真美の周りには、血のついたティッシュが散乱していた。
「利生・・・」
真美が少し笑みを浮かべて、利生を見つめた。
「はぁ、とりあえずよかった」
利生はそう言って、ベットの横にあるテーブルの前に胡坐をかいた。全身の力が抜けたように、どっと疲れが出たのが分かった。有香が戻ってきて、真美の横に座った。
「ねぇ、真美。本当にお母さんとかに電話しなくていいの?」
有香が不安そうに言った。
「だめだよ。お母さん、心配するし・・・」
真美がもじもじしながら言った。
「そっか・・・、私、今日、ここに泊まるよ。なんか心配だし」
有香がため息をつきながら言った。
「利生は?まだ、帰らないよね?」
真美が、利生に向かって大きな声を出した。
「明日、用事があって朝早いから、あんま遅くまでは居れないよ」
利生は、遠まわしにすぐ帰ることを言ったつもりだった。突然、真美が利生に抱きついた。また、『死ぬ』とか言われそうで、利生は困った表情を浮かべていた。
「嘘。朝早いなんて嘘でしょ。私が、寝るまで帰らないで。お願い」
真美が、利生の耳元で小さな声で言った。
結局、利生は夜11時過ぎに真美が寝るまで、真美のアパートにいた。真美のアパートを出ると、利生は、大きなため息をついてゆっくりと歩きだした。なんだか、とても最悪な気分で、このような気分で弥生の家に行きたくなかった。それに、弥生に対して、本当のことは言えないし、罪悪感みたいなものがあって、弥生の家に行っても何も楽しめない気がした。利生は立ち止まって、弥生にメールした。
『友達が事故って、病院行ったりしてて連絡できなかった。ごめん。今日は、自分の家に帰るね』
利生はその足で智史の家に向かった。
智史は、テレビを見ながら、コンビニで買ってきた弁当とカップラーメンを食べていた。利生はテーブルの前に胡座をかいて座って、テレビを見てぼーっとしていた。
「俺の家は、くつろぎの場じゃねぇぞ。お前が来るのはいつもいきなりなんだから」
智史がラーメンをすすりながら笑った。
「てか、聞いてくれよ」
利生がそう言いながら、タバコに火をつけた。
「あ?」
「真美がさ、『手首切った』とか言って電話してきて、マジ大変だったんだけど」
「は?何それ?」
智史が目を丸くした。利生は智史に詳しく説明した。智史は、弁当を食べる手を止めて、利生の話を無言で聞いていた。
「でさ、真美が寝たから、有香ちゃんに任せて、やっと帰れたんだよ。あー、マジ最悪だったわー」
利生が、そこまで言い終えると、タバコを消した。智史は、利生の話が終わると、いったんテレビの方に目をやり、再び弁当をもくもくと食べだした。
「あの子ヤバくね?あり得なくね?マジ勘弁して欲しかったわ」
利生が、智史の方に身を乗り出して言った。智史は、何も答えず、弁当を食べ続け、テレビに目線を置いていた。
「なぁ、聞いてる?」
利生が智史の肩を軽く叩いた。智史は、割り箸を食べかけの弁当のパッケージの上に無造作に置くと、利生のほうを見た。
「あぁ、聞いてるよ」
そう言って智史はタバコに火をつけた。
「で、お前は俺になんて言って欲しいんだよ?」
智史は少し怒り口調でそう言って、タバコの灰を何度も灰皿に落としていた。
「何って・・・別に何でもねぇよ」
利生が気まずそうに言った。いつもなら、女がらみの失敗談を話すと笑い飛ばす智史だが、そんないつもの態度とは180°違っていた。智史は弁当を食べ、利生はテレビに目線を置いて、ややしばらく沈黙が続いた。
「なんか腹痛て、この弁当不味いわ」
智史はそう言って、ベットに寝転び、雑誌を手に取った。そして、雑誌をペラペラと捲り、利生に背を向けた。
「なんだよ?なぁ、なんだよ?」
利生がそう言いながら、智史に近づいた。智史は無言で雑誌を見ていた。
「言いたい事あんだったら言えよ」
利生が、智史の肩を揺さぶった。
「真美ちゃんもキモイけど、お前もキモイ」
智史が、雑誌の同じページをじっと見たまま言った。
「は?」
利生がそう言うと、智史は仰向けになり、雑誌を顔の上に乗せた。
「俺、寝るわ。お前帰れ」
「キモイってなんだよ」
利生がそう言って、智史の顔の上の雑誌をどかして、智史の肩を叩こうとした時だった。
「なんだよ」
智史が大きな声でそう言い、急に起き上がった。そして、利生の手を掃おうとした智史の腕が、思いっきり利生の顔面にヒットした。
「痛て、何すんだよ」
そう言って、利生が智史の胸ぐらを掴んだ。智史も利生の胸ぐらを掴み返して、殴り合いの喧嘩になった。しばらくももみあっているうちに、智史がさっき食べていたラーメンが倒れて、スープがテーブル一面にこぼれた。この瞬間、智史が大きな声を出した。
「あ゜ー、俺のディープが!!」
二人は互いに手を放し、ラーメンスープまみれの、ディープインパクトのフィギアを見つめた。
「俺のディープー!」
智史はそう言いながら、切ない表情を浮かべて座り込み、ディープインパクトをティッシュで丁寧に拭いていた。利生は、あっけに取られた感じでそれを立ったまま見つめていた。すると、智史がディープを拭きながら言った。
「俺は、お前といると面白いし、女癖の悪いのだって笑えるけど、今回のはちょっと、人の気持ち振り回しすぎ。お前みたいな奴に振られたくらいで、死ぬだの何だのもおかしいけど、お前、真美ちゃんが線引きできるようにするくらいしてやれよ。中途半端な優しさ見せて、俺んとこ来て愚痴ったって何にもなんねぇよ」
智史はそこまで言い終えると、フィギュアの臭いを嗅いで、少しニヤつきながら言った。
「ちくしょ、ラーメンくせぇ・・・」
智史が怒っていた理由が、なんとなく分かった。自分が、適当に行動していた事で、智史にいつもフォローしてもらっているのは分かっていたが、自分が感じている以上に智史には、申し訳ないことをしたような気がした。今日も、真美の気持ちを適当に扱った自分が原因なのに、有香を巻き込み、更にはっきりとした態度も取らず、死なれたら面倒だとかそんな事ばかり考えて、中途半端な態度を取って帰って来ていた。むしろ、月曜、学校で真美に遭遇したら、智史に助けを求めるつもりでもいた。自分の智史への甘えが、智史にとってかなりの重荷になっていたのかもしれない、と利生は思った。
「智史、悪かった」
利生はそう言って、キッチンに台布巾を取りに行った。
「分かってくれればいいのよー」
智史はそう言いながら、相変わらずフィギュアを拭いていた。利生がテーブルを拭き、喧嘩で散乱したものを片付けていると、智史が急に大きな声を出した。
「は、明日の天皇賞秋の予想立てるの忘れてた!あぶねぇ、利生がいきなり来たからだよ」
「あー、明日かー、俺も買おっと」
「去年はディープが出なくて、ムーンに賭けたけど撃沈したしなぁ。ワイドで買っときゃよかったよ。しかも、利生が勝って俺が負けたのがきにくわねぇし」
智史は、フィギュアを棚に飾りながら笑った。
「パドックでダイワメジャーしかいないって思っちゃったんだよねー」
利生も笑った。
翌朝、利生は智史と一緒に東京競馬場に向かっていた。途中の電車の中で弥生からメールが入った。今日も会えないのか?という内容だった。そこで、利生は弥生を競馬場に誘った。弥生はすんなりOKし、着いたら連絡するという事で、メール終えた。利生は、電車の揺れに身を任せて気持ちよさそうに眠る智史を起こした。
「なぁ、彼女が来たいって言ってんだけど、競馬場で合流してもいい?」
「え?彼女って本当にいたんだ・・・」
智史は少し寝ぼけた様子で、目を擦っていた。
「いいけどさ、彼女って誰?うちの大学?」
智史は大きくあくびをして、目を真っ赤にして言った。
「だから、前に言ったじゃん。響野美紀だよ。本名は、弥生って言うんだ」
利生が携帯を触りながら言った。
「うぜぇ、なんで本当のこと隠すの?てか、響野美紀なんて、どこで知り合うって言うんだよ。あり得ねぇし」
「ゴミ置き場。沙希んちの。マジでこれリアルに本当だから」
「なんだそりゃ、どうせ後で会うからいいけどさ」
智史は、全く信じていない様子で、再び腕を組んで目を閉じた。
競馬場について、3レース程かけてみたが、智史も利生もマイナスだった。
「全く、調子づかねぇ。天皇賞でいっちょ決めるしかねぇな。パドック行こうぜ」
智史が、新聞を丸めて手をパンっと叩いていた。その時利生の電話が鳴った。弥生からだった。
「利生、今、着いたんだけど、どこ?」
「今からパドック行くから、パドックで待ち合わせね」
「うん、わかった」
弥生はそう言って、電話を切った。パドックに着いたが、人が多すぎて弥生がどこにいるか分からなかった。
「利生、何買う?」
智史が新聞を見ながら言った。
「俺は、マツリダゴッホを軸に買うね」
「は?来るわけねぇし。俺はサムソンだね。3連単で買う!」
「2.3着は?」
「それが今俺の中で大問題。やっぱ、ムーン、いやカンパニーも捨てがたいし、アグネスじゃん?ダイワメジャーもなぁ」
「なんだよ、決まってねぇじゃん」
笑いながら、利生と智史は、馬券を買いに行った。歩きながら弥生に電話して、『どこ?』とか話していた。
「彼女、来たの?」
智史が言った時だった。電話口から弥生が『見つけた』と言った大きな声が聞こえ、すぐに電話が切れた。
「利生!」
後ろを振り返ると、弥生が小走りにやってきた。横を見ると、智史は弥生を見て固まっていた。
「な?嘘じゃないだろ?」
利生が笑いながら言うと、智史は口をあんぐりと開けて頷いた。
「こんにちは」
弥生がにこっとして智史に挨拶した。
「握手してください」
智史が手を差し出した。
「ばーか」
利生が笑って智史の頭を叩いた。智史は放心状態だったが、しばらくすると慣れたようで、弥生と普通に話すようになった。
「あー、どうしよう、ポップも気になるなぁ、ポップ、ムーン、アグネス、カンパニー、ダイワメジャー」
智史が悩む横で、利生はマツリダゴッホを軸に、弥生は、3連複でアグネスアーク、カンパニー、メイショウサムソンを買っていた。
「弥生さん、サムソンに、カンパニーとアグネスアークなんだ・・・俺も真似しよ。俺は3連単で勝負!」
智史が馬券を買い終えると、3人は一般席に向かった。人ごみの中で何とか3人入れるスペースを確保すると、ちょうどレースが始まった。
『パーパパパーパパパー・・・・』
トランペットの音と同時に、観客の手拍子と歓声が起こった。
「すごい盛り上がり、楽しいね」
弥生はそう言って、利生の手を握った。
「サムソーン!」
横で智史が叫んでいた。そうこうしている内にスタートした。
「マツリダゴッホどこ?」
利生が目を凝らしている横で、弥生と智史はかなりヒートアップしていた。最後の直線に入ると、智史と弥生は
「きたきたきた!」
と大きな声で叫んでいた。見事、弥生と智史の予想は的中した。
「キャー、すごいすごい!」
弥生がニコニコして喜んでいた。
「すげぇ、俺3連単的中!やべぇ、弥生さんすげぇー」
智史もかなり興奮しているようだった。
「なんだよ、つまんねぇな・・・」
利生は馬券を破り捨てた。配当金が電光掲示板にでると、三人は思わず息を止めた。
「てか、18万だぞ、おい!お前いくら買ったんだ?千円で180万だぞ!」
利生が智史の肩を強く叩いた。
「300円」
智史が笑った。
「なんだよ、お前、千円くらい買っとけよ。え、でも、それでも56万!?すげぇわ」
利生が興奮していた。
「私は、3連複だから千円で36万だぁ」
弥生が満足そうに言った。
「すげぇよ、すげぇよ」
利生が、自分のことのように興奮していた。
帰りに、智史のおごりで焼肉を食べに行った。
「てか、弥生さんすごいよね。俺、弥生さんいなかったら勝てなかったよ。なんであの3頭って分かったの?」
智史がハイテンションな感じで言った。
「うーん、なんとなくだよ。本当にたまたま。私、競馬場来たの初めてだったし、全然馬の事とか分かんないしね」
弥生が照れくさそうに言った。
「てかさー、マツリダゴッホには裏切られたよー、てか蛯名さんに裏切られたー」
利生が、ビールを飲みながら言った。
「だから、来ないって言ったじゃん」
智史が得意げに言った。
「でも、もしさ、マツリダゴッホが勝ってたら、すっげぇドラマで感動じゃね?」
利生が智史の方に身を乗り出した。
「まぁ、確かにね。でも世の中そんな事はなかなか・・・」
智史が言いかけた時だった。
「なんで?なんで、感動なの?」
弥生が興味津々に言った。
「ん?マツリダゴッホはね、蛯名っていう騎手が落馬しちゃった事があって、それでだめになっちゃったレースがあるんだ。それからずっと別の騎手が乗ってて、久々に蛯名が今日乗ったんだよ。それで勝ってたらさ、マジ泣けね?」
利生が弥生にゆっくりと説明した。
「へぇ、そんな事があったんだぁ。確かに感動だね。へぇ、なんか、その馬、応援したくなっちゃった」
弥生が嬉しそうに言った。
「でしょ!?」
利生も嬉しそうに言った。
「ねぇ、競馬ですっごい大穴とかきてさー、お金何億とか入ったらすごいのにね。そしたら、私、どこか空気の綺麗な海外の町に大きな家買って、利生と二人で暮らしたいなぁ」
弥生が両手を組んで、上目線で、一緒に暮らす姿を想像しているかのように、笑顔で言った。
「そんな事になったら、マジ幸せだね」
利生がニコニコして言った。
「なんだよ、目の前でいちゃつくなよー」
智史が笑った。
そう、俺は弥生とずっと一緒にいたいんだ。ずっととか、一生一緒にとか、弥生に出会うまでは誰にも言った事ない言葉だし、その言葉を発する男の気持ちだって理解できなかったけど、今なら分かるよ。
あぁ、神ってやつがいるのなら、俺は迷わずこう願う
弥生とずっと一緒にいられますように・・・
翌日、利生は弥生のベットの上で、携帯の目覚まし音で目を覚ました。今日、利生はゼミがあって、学校に行かなければならなかった。支度をして、玄関に向かうと、弥生が後を追ってきた。
「外まで、送るね」
弥生は部屋着のまま、玄関ロビーまで出てきた。玄関ロビーのポストの中を覗いて、弥生は不思議そうに言った。
「あれ?昨日、家電の引き落としの領収書入ってたんだけどな・・・おかしいな」
「え?なくなったの?」
「うん、昨日、競馬場行く前にポスト覗いたら入ってた様な気がしたんだけど・・・気のせいだったのかな?」
「なんだそれ、キモイな」
「んー、気のせいじゃない?昨日私が見間違えただけだよ。利生・・・」
そう言って弥生は、利生に抱きつきキスをした。
「いってらっしゃい」
弥生は笑顔で利生に手を振った。利生は、そんな弥生を見て、幸せな気分を噛み締めながら笑顔で手を振り返した。良く晴れた秋風の心地よい、そんな何にもない朝だった。何にもない朝のはずだった。
恋学 第八話を読む