「利生、愛してる」
弥生がそう言った時の息遣いが、利生の耳にいつまでも残り、利生は胸に感じる言い表せない程の切なさと同時に、時間を忘れて弥生を抱きしめた。その後、朝方まで二人は何度も愛し合い、朝日が少しだけ差し込み始めたカーテン越しのベットの上で、無言で寄り添っていた。利生は、弥生の髪の毛から漂う甘い香りを嗅ぎながら、目を閉じて今まで感じた事のない心地よさを感じていた。利生はそのまま目をつぶった。
俺は、なんでこんなに弥生が愛しいのだろう?弥生と一緒にいると、眠る事さえ無駄な時間に感じる。自分の中のすべての細胞が弥生だけを求めている。すべての欲求を弥生だけが満たせるかのようだ。
「利生、パパのお友達の百合子さんだよ」
「百合子さんが利生のママになってくれるんだぞ」
「どうして?ママが帰ってきたら百合子さんはどうするの?」
「利生、ママはお空の国に行ったんだよ」
いつからだろ?お空の国があるかどうかは、死んだ後にしか分からないって事を理解したのは・・・
いつだったんだろ?夜中に目が覚めた時、百合子さんが裸で親父の上にまたがってたのを見たのは・・・
幼かった俺は、もう一回布団に入って耳を塞ぐ事しかできなかった。
「ランララランランランランラン・・・」
眠り初めに、今でも必ず頭に響く子守唄。何歳になっても消える事はないのだろうか?実の母の透き通るような綺麗な声・・・
『ブー、ブー、ブー・・・』
弥生の携帯のバイブの音で、利生は目を覚ました。時計は朝の10時前を指していた。弥生が、携帯の画面を無表情で見つめていた。
「出ないの?」
利生が起き上がった。
「仕事の人からなんだ・・・」
弥生はそう言うと、急に笑顔になった。そして徐にベットから降りて、カーテンを勢い良く開けた。手には、鳴り続ける携帯電話をしっかりと握っていた。弥生は、窓をゆっくりと開けて、ベランダに一歩出た所で振り返り、再びにこっと笑った。
「これ、いらない」
そう言って、ベランダから携帯を投げ捨てた。
「おい!」
利生はびっくりして、ベランダに勢い良く出て、ベランダの柵に身を乗り出した。落ちて行く携帯電話が、まるでスローモーションのようにを見えた。携帯は、地面に落ちた瞬間、割れてバラバラになった。
「危ねっ・・下に人が歩いてたらどうすんの!?」
利生が、目を丸くして弥生を見た。
「あ、そっか・・・まぁ。いなかったんだから、いいでしょ!?」
弥生は笑いながら、リビングに歩いて行った。利生は弥生の後を追ってリビングに行った。弥生が急に振り返って、利生の腰に手を回し、顔を斜めに傾けて嬉しそうに利生を覗き込んだ。
「これで何も邪魔はなくなったね」
弥生はそう言って微笑んだ。
「弥生、愛してる。愛してる」
利生はそう言って、弥生を力一杯に抱きしめた。
「弥生、俺今から学校行って来るね、7時までには帰るから」
「うん、ハーブのパスタ作って待ってる」
そう言って弥生は、利生の頬に軽くキスした。
学校に着いて、学食に智史を探しに行った。智史は数人の男友達と、喫煙所で楽しげに話していた。
「おお!やっと来たか」
智史はタバコを灰皿に押し付けて、ニコニコして利生の肩を叩いた。智史の家から飛び出して、明らかに最悪な態度をとったのに、利生のわがままを自然に流してくれる智史のこういう所は、利生にとって智史を好きな部分の一つであった。久しぶりに行った学校はなんだか雰囲気が違うように感じた。通いだして3年、落ち着く空間になっていた学校にいながらも、利生の頭は弥生の事ばかりで、早く帰りたいという高鳴る気持ちでいっぱいだった。智史といつものように、じゃれあいながら教室に入ると、真美が利生を見つけて駆け寄ってきた。
「ずっと来なかったから、心配してたの。ノート沢山とったから、後で貸すね」
真美が、心配そうに利生を見つめ、ここまで言い終えると、少しだけ笑った。
「ノートいいや。智史になんとかしてもらうわ!」
利生は、真美を避けるように席に着いた。真美は利生の後を追って、利生の座った席の横に立ち、もじもじしながらこう言った。
「ねぇ、今日って暇?」
「ちょっと忙しい」
利生がそう言っても、真美は自分の取っていた席に戻る気配を見せなかった。
「じゃぁ、明日は?」
「明日も無理」
「そっか・・・あ、じゃぁ、今週末は?」
真美が利生の前に身を乗り出した。
「真美、もう遊べない。ごめん」
利生はそう言うと、場の空気に耐えられずに、トイレに立とうとした。
「どうして?」
真美が利生の腕を掴んだ。
「彼女ができたんだ。だから遊べないよ」
利生はそう言うと、真美の手を掃った。そして、教室のドア方向に歩き出そうとした。すると、また真美は利生の腕を掴んだ。
「どうして・・・」
小さな声だったが、真美の表情は見たことのない怒ったような表情になっていた。奥手で大人しい真美のいつもの態度と、明らかに違う空気に利生は固まった。
「『可愛い、真美』って、『好き』だって言ったのに・・・」
真美は下を向いたまま小さな声でそう言ったが、腕を掴む力は、華奢な体からは想像もつかない程だった。
「嘘だったの?ねぇ、嘘だったの?」
真美の声は少し大きくなり、視線はしっかりと利生を見ていた。
「ごめん」
利生はそう言って、力一杯に真美をはらい、トイレに向かった。しばらく経って教室に戻ると、授業が始まっていて、真美の姿はなくなっていた。席に着くなり、智史が小声で言った。
「こえぇ・・・さっきの真美ちゃん、マジビビったんだけど。まぁ、身から出た錆ですな。てか、彼女って誰よ?」
智史は興味津々といった感じだった。
「響野美紀。てか、もう仕事辞めさせたけど」
「は?」
智史は一瞬固まり、すぐにゲラゲラ笑った。
「冗談きついぜ」
そう言って智史は、声を押し殺して更にお腹を抱えて笑っていた。
「ほんとだって」
利生がそう言っても、智史はゲラゲラと笑い続けていた。
講義が終わり、智史の誘いもサラッと断った利生は、早い足取りで駅に向かっていた。改札を抜けて、電車を待つ間も時間までもがとても長く感じた。すると、利生の携帯がなった。画面を見ると、真美からだった。利生は画面を確認すると、電話に出ずにポケットに携帯をしまった。しかし、その後も、しつこく電話は鳴り続けていた。弥生の家の最寄り駅に着いた所で、利生は何度もかかってくる電話に仕方なく出た。
「利生・・・」
真美の力ない声が耳に響いた。
「利生、どうしよう、私、死んじゃうよ」
「は?」
「あのね、手首切ったらね、血がいっぱい出てきて痛いの、痛いの。利生」
そう言うと同時に、真美は嗚咽になって泣き出した。
「利生、私、死ぬんだよ。利生のせいだからね、利生のせいだよ」
携帯から、真美の鳴き声と荒い息づかいがゴーゴーと鳴っていた。夕飯時の駅前は、人ごみで、その人ごみの中で、利生は頭を抱えて立ち尽くしていた。
「嫌、利生。嫌いにならないで・・・ならないでよー。好きなの、利生。全部利生がいけないんだよ、利生がいけないんだから」
真美はそう言い終えると、電話を一方的に切った。人ごみのざわざわした音の中で、利生の耳には、『プー、プー・・・』という電話の切れた音がとてもクリアに聞こえていた。
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