「うるさいわね、放してよ」
真美は、利生の怒りの表情に負けない位、力のある目で利生を睨みつけた。
「私は、本当の事、教えてあげただけよ。利生には女の子が沢山いるって、遊ばれてるだけだって!」
真美は、大きな声でそう言うと、利生の手を強く振り払い、利生に背中を向けた。
「おい、ちょっと待てよ」
利生は、再び真美の腕を掴んだ。
「どうしてそんなに必死なの?あの人の事になると、必死なのね」
利生に背を向けたまま、下を向いて、真美が言った。
「利生が、私を呼び止めたの、初めてだね」
真美はそう言いながら、悲しそうな目で、利生を見た。
「いつも、私が呼び止めてた。それでも、利生が笑って答えてくれると、心が舞い上がったの」
真美の目が、だんだんと潤んできているのが分かった。真美の腕を掴む、利生の手の力もだんだんと弱まった。
「好きだったの。私は、本気で利生を好きだったのよ」
真美はそう言ったと同時に、涙を一粒零した。利生はそれを見て、真美の腕から手を放した。
『好き』
今の利生にとって、この言葉の重みは、十分と言っていい程、分かるものであった。弥生と出会って、この言葉には、太陽の日も当たらないくらい、深い、深い、深海のような深さがある事を知った。自分の中の、純粋で、心地良い感情、だけど、時に、自分でも分からなくなるような、コントロール不能な、不思議な感情。急に、言いたくなったり、なかなか言い出せなかったりする不思議な言葉。利生は、真美のそんな気持ちを、代返やノートというくだらない理由で、もてあそび、その気持ちを利用して、自分の性欲を満たした事さえをもあったのだ。そんな事を考えていると、利生の怒りはだんだんと熱を失っていった。
「どうして、どうしてなの。嬉しかったのに。私は、嬉しかったの。利生が『可愛いよ』って、『好きだよ』って、そんな事言われたの初めてだったの」
真美の声は震えていた。真美は、その声と悲しみを抑えるかのように、両手で自分の口を押さえていた。
「初めてだったのよ・・・」
真美は、再び利生に背を向けて、両手で更にぎゅっと口を押さえ、止めることなく涙を流した。
「嘘だったなんて、信じたくない。信じたくないのよ」
利生は、真美を見て固まっていた。今、自分がどうすればいいのか、何を言えばいいのか、全く分からなくなった。
『嘘だったなんて、信じたくない』
真美の言ったこの言葉が、ただただ、頭に響くばかりだった。もし、弥生に、今までの気持ちがすべて偽りだった、と告げられたら、自分は、どんな悲しい気持ちになるだろう。振られる、振られない、に関係なく、地獄に突き落とされたような、どうしようもない気持ちに襲われるだろう。利生はそんな事を考えた後、真美に一歩近づいた。
「真美、ごめん。俺、どうしようもない最悪な事した。ごめん」
利生は、真美の背中にそう言った。真美の気持ちを軽視しすぎていた事は、かなりの重罪だ、という風に、本気で思ったのだ。しかし、謝る他、何も思いつかなかった。真美は、涙を沢山溜めた目で、その涙をこらえるかのように、顔を歪ませて振り返った。
「真美の真剣な気持ち、俺には理解できなかったんだ。俺、バカだった。今更だけど、真美の気持ちやっと分かった。でも、真美の気持ち受け入れられない。俺、本当にバカだ。ごめん。悪かった」
利生は、真美に頭を下げた。真美の涙が止まった。そして、利生の頭を数秒じっと見つめ、再び涙を沢山流した。
「そんなんじゃ、許せない。許せないんだから!土下座・・土下座しなさいよ!私の・・・私の気持ち返してよ!」
真美は、だんだんと声を大きくしながら言った。利生は、冷たい地面に、ゆっくりと膝をつけた。真美は、そんな利生を、大きく開いた真っ赤な目で見つめた。利生は、両手を地面につき、続いて額を地面につけた。コンクリートの硬く、冷たい感覚が、利生の額に伝わった。そのまま、利生は地面を見つめていた。利生は、真美に言われるがままにする以外、なす術が分からなかった。真美に対して、やってしまった事は、最悪で、取り返しのつかない事だった、という事は実感したが、それに対して、自分が何をできるのかが、思いつかなかった。数秒間そのまま二人は黙っていた。急に、真美が、地面にしゃがみこんだ。そして、嗚咽になって泣き出した。
「嫌・・・嫌・・・」
真美は、両手で涙を拭って、何度もそう叫んだ。
「顔上げてよー、謝らないでよー、『嘘じゃなかった』って言ってよー」
そう泣き叫んで、真美は、利生の腕を掴み、強く揺さぶった。利生は、それでもずっと、そのままの体勢でいた。土下座までした今、ここで態度を変えたら、余計に、真美の気持ちは、行く宛てがなくなると思った。
「ばかー、利生のばかー、最低!もう、最低」
真美はそう言って、利生の背中を何度も叩いた。何度も、何度も背中を叩くと、真美は、地面にべったりと座り、零れ落ちる涙を拭いながら、黙って鼻をすすっていた。利生は頭を上げて、真美の横顔を見た。真美は、利生を1回見ると、ゆっくりと力なく立ち上がり、しばらく黙って遠くを見ていた。そして、自分のバックに付けている、小さなビーズの飾りを、人差し指と親指に挟んで撫でて、その飾りをじっと見つめていた。そのビーズは、大分前に、利生と真美がゲームセンターに行った時、利生が取って、真美にあげた物だった。
「私・・・謝らないから」
真美はそう言って、ビーズの飾りを、バックから乱暴に取った。
「絶対に、謝らないわ!」
真美は、そう言うと同時に、利生にビーズを投げつけて、そのままその場を立ち去った。利生の目の前に、バラバラになったビーズが散乱していた。利生は、ゆっくりと立ち上がり、ズボンを掃い、ベンチに腰をおろした。
『ランランララランランラン・・・』
実母の歌声が頭に響いた。
「ランランララランランラン・・・」
利生は、小さな声でその歌を口ずさみ、タバコに火を付けようとした。ライターのガスが残り少なかった為、火が付けられなかった。利生は小さくため息をついて、口からタバコを取った。
「冬はターボライターが付き易いぞ」
目の前に、智史が立っていて、自分のタバコに火を付けると、ターボライターを差し出した。
「よぉ・・」
利生は、そう言ってライターを受け取った。
「この間は悪かったな」
利生は、タバコに火を付けた。
「マジびっくりしたっつーの。利生の部屋行って、押入れの前で倒れてた時は、死んでるのかと思ったよ。まぁ、お前みたいな奴程、ずぶとく長生きしそうだから、死ぬ訳ないけどな」
智史は笑いながら、利生の横に座り、タバコの煙を吹いた。
「俺は、どんな奴だよ」
利生は少し笑って、智史に借りたライターを差し出した。
「やるよ、俺もう一個持ってるし、健闘を祝して。100円だけどね」
智史がにこっとした。
「健闘?」
利生が智史を見上げた。
「お前、変わったな。まぁ、俺みたいにいい男になるには、まだまだだけどな。けどさ、真美ちゃん、さすがにもう、何も言ってこないだろうな」
「見てたの?」
利生はそう言いながら、智史のライターを、握り締めた。
「『俺みたいにいい男』をスルーすんなよ」
智史がニコニコした。
「は・・」
利生が下を向いて笑った。
「今日、揉むか?」
智史が胸を揉むポーズをした。利生が、不思議そうな顔で智史を見た。
「あ、やべ間違えた。飲むか?」
智史がそう言いながら、タバコを消した。
「絡めねぇ」
利生も笑いながら、タバコを消して、智史のライターを、自分のジャケットのポケットにしまった。
「智史、俺、お前の事やっぱ好きだわ」
利生が、智史の肩を軽く叩いた。
「気持ち悪ぃなぁ」
智史が嬉しそうに言った。
「智史、俺、弥生と別れた」
智史は、一瞬目を丸くして利生を見たが、すぐに穏やかな目で遠くを見た。
「そっか」
智史がそう言うと、二人はそのまま、遠くを見ていた。何かに視線を合わせるのでなく、なんとなく遠くに視線をやっていた。利生の手には、真美が盗んだ、弥生の自宅電話の領収書が握られていた。弥生は、最後に会った時『不安なの』と言った。真美が、どの位しつこく弥生に電話したのかは分からないが、それが原因で、利生が浮気していると、弥生が勘違いしていた事は、多かれ少なかれ予想できた。弥生に辛い想いをさせた事に対して、謝らなければいけないと思った。そんな事を考えていると、弥生に無性に会いたくて仕方なくなった。しかし、会った所で、余計に弥生を忘れられなくなって、辛くなるのは目に見えていた。仮に、関係が修復したとしても、弥生がAV女優だという事で悩む。色々考えているうち、弥生に会って、誤解を解く意味がないような気がした。
「俺の脳みそ、どっか行かねぇかな」
利生が、領収書をポケットにしまいながら言った。
「何しててもさ、弥生の事ばっか、今だって、さっき真美と話してる時だって、一人の時も、学校来ても、弥生の事が頭から離れねぇ。会いたいけど、会ったってしょうがねぇし」
「会いに行けばいいじゃん」
智史がさらっと言った。
「え?」
「とりあえず、会えば、今のお前の悩みは解決するじゃん。会ったら、また違う事で悩むかもしれないけど、違う悩みになった分、今よりはマシだべ?」
「むちゃくちゃだろ」
利生が苦笑いした。
「どっちにしろ、お前はいつもむちゃくちゃじゃん。ねちねち考えてるのは、似合わねぇよ」
智史が、利生に笑いかけた。
「で、今日は飲みに行くの?行かないの?」
智史が、利生の肩を叩いた。
「とりあえず、行かねぇ」
利生は、そう言うと同時に立ち上がった。たとえ弥生と元に戻っても、AVの事で悩む事は分かっていた。でも、病院で別れたあの日、勘違いから、二人の心はすれ違っていたのは確かだった。お互い納得して別れた訳ではないし、後悔ばかりの別れだった事も確かだ。悩みは振り出しに戻っても、弥生にもう一度会う事を、利生は選んだのだ。利生の歩調はどんどん速くなり、気がつくと走っていた。駅に着き、電車を逸る気持ちで待っていると、利生の携帯が鳴った。画面を見ると百合子からだった。
「もしもし」
利生が電話に出ると、いつもゆっくりと小さな声で話す百合子が、大きな声を出した。
「りつくん?お父さんが・・・お父さんが吐血して倒れたの」
駅のガランとしたホームに、携帯を耳に当てたままで立つ利生の横を、通過電車が大きな騒音を立てて通り過ぎた。