利生が入院して3日経った。利生は、退院する為に身支度をしていた。未だ、利生の中で、弥生との事は、答えを出せずにいた。利生は、身支度をする手を止めて、窓を開けて、窓から少し首を出して、外の空気を吸った。時間は午前10時前で、病院に隣接する公園から、遊んでいる子供達の『キャーキャー』言う声と、近くの国道から車の『ブーン』という音が聞こえた。弥生と最後に会ったのは3日前のはずなのに、とても昔の事のように感じた。弥生が、エレベーターに乗って手を振った姿が頭に浮かんだ。別れるか、別れないのか、どちらをとっても辛い選択になる事は明らかだった。
「はぁ・・・」
利生は、ため息をついた。
『俺が働くよ、学校やめる』
自分の言った言葉を思い出した。
働いて、弥生を養って、どうするんだ?それって結婚?結婚って!?確かに、弥生とずっと一緒にいたいって思ったけど、そこまで考えていた訳じゃない。結婚なんて、どんな事なのかも分からない。自分が結婚って言葉を考える事さえ、頭に浮かんだ事なんかない。じゃあ、なんなんだ?学校辞めて、働いて、俺はどうする気だったんだろう?
ただ、弥生にAVをやって欲しくなかっただけだ。弥生を独占したいだけだ。弥生が好きで、好きで、好きで・・・どうしようもなくて・・・
だから、どうするってんだ?俺は一体、何がしたいんだ?弥生をずっと閉じ込めておきたいってのか?誰にも何もされないように?
「わかんね・・・」
考えれば考えるほど、分からなくなってきて、悩みは大きくなるばかりだった。利生は、大きなため息を1回つくと、再び外を見た。正面に東京タワーが見えた。ビルの谷間に苦しそうに頭を出しているように見えた。
「利生」
その呼びかけに、驚いた顔で利生は振り返った。病室のドアの前に弥生が立っていた。手には小さな花束を持って、気まずそうに微笑んだ。
「智史君が、利生が入院したって知らせてくれて・・・でも、もう退院みたいだね」
弥生は、そう言いながら利生のベットに近づき、利生がさっきまでまとめていた荷物に目をやった。
弥生だ・・・たった3日間会わなかっただけで、すごく会いたかったのに、会いたかったのに、ずっと長い時間会わなかったみたいに、頭がおかしくなりそうな位、弥生を求めていたのに、その弥生が目の前にいるのに、嬉しい気持ちより、愛しい気持ちより、悲しく、切ない気持ちがする。
「利生」
弥生は、利生に花束を差し出した。少し潤ませた、何かを欲するような目で利生を見つめていた。利生が花束に手を伸ばすと、弥生は、その手を軽く握った。そして、利生の指を優しく繰り返し撫で、その撫でている手を悲しい表情でじっと見ていた。
「利生、会いたかった」
弥生はそう言うと同時に、利生の胸にゆっくりと顔を寄せた。弥生の頭から、肩から、耳元から、弥生のいつもの甘い香りがする。弥生の事が愛しかった。愛しくて、愛しくて、今すぐ、弥生を抱きしめたかった。でも、できなかった。利生の中で弥生の仕事を認める事をどうしても決心できなかった。だから、ここで、弥生を抱きしめたら、今よりもっと悩むし、辛さが増すようなそんな気がした。
「あんな話しておいて、こんな事するなんていけないって分かってる。ごめん、でも、我慢できなかったの」
そう言って、弥生は利生から離れた。
「あの日、利生が帰ってから、3日間すごく長い時間に感じたの。利生と付き合って、そんなに長い時間たってないのに、うちにいると、利生とうちで過ごしたことばかり・・・ベットも、ソファーも、食器も、全部、前からうちにあった物なのに、全部、利生の思い出なの」
弥生は右手を軽く握って、その手を口に当てて、目線を下に向けた。
「利生と別れたら、こんな日がずっと続くんだって思ったら、考えただけで辛くて」
病室の中は静まり返って、廊下にいる人の声がとても遠くに聞こえた。窓の外では、相変わらす子供達の声と、車の音がして、東京タワーが青い空に真っ赤に聳え立ち、二人のやり取りを、眺めているかのようだった。
「でも、仕事辞めて、新しく色々な事考えるって、すごく決心がいるし、この先、利生が私の前からいなくなるような事があったら、その決心を後悔してしまうかもしれない」
そう言って弥生は黙り込んだ。利生も弥生の話を聞けば聞くほど分からなくなって、頭が破裂しそうなくらいごちゃごちゃになった。
「どっちなの?弥生の言ってる事、全然わかんねぇよ。仕事の事認めてくれないんだったら別れるって、弥生が言ったんだよ?同じ事ただもう一回言ってるだけなの?いきなり来て、抱きつかれて、俺、わかんねぇよ。俺だって余計分かんなくなるよ」
利生は頭を抱えた。こんなに辛くて、胸が痛い気持ちは初めてだった。誰かとただ一緒にいたいってだけで、こんなに頭が痛くなるほど考えるなんて、自分でも信じられなかった。その不慣れさも相俟って、利生の心はどんどん追い詰められていった。
「利生、私以外に、付き合ってる子いるの?」
弥生が、真剣な顔で利生を見つめた。
「え?」
利生は、弥生の言葉の意図が分からなくて、余計に訳が分からなくなった。
「いるの?」
「いないよ、何言ってんだよ、話の筋が違うだろ?」
弥生は、それを聞くとしばらく下を向いていた。そして、そのままの体勢で小さな声で言った。
「・・・不安なの」
弥生はずっと下を向いたままだった。利生は頭が爆発しそうで、何がなんだか分からなくなっていた。
「利生は、ずっと、私だけを好きでいるの?自信あるの?」
「なんだよそれ、弥生の言ってる事わかんねぇ」
利生は力なくベットに座り込んだ。
「だって、そんな保障ないじゃない、今だって、私だけじゃないかもしれないし」
弥生の声は少し大きくなった。利生の心に、悲しさと怒りが一緒にこみ上げてきた。こんなに弥生を想っているのに、そんな風に弥生が思っていたなんて、ショックだった。あの夜から、ずっと考えて、悩んでいたのに、弥生は何も分かっていないんだ、と思った。利生は、弥生が勝手だと思った。こんな話を切り出してきたのは弥生だし、好きな故に、沢山考えたのに、考えてる最中に、弥生は自分の感情ばかり、考え無しにぶつけてきている。利生の頭のごちゃごちゃさは絶頂で、もう、何も考えられなくなった。
「もうだめだ、別れようぜ」
そして、利生の口からかすれた小さな声が出た。その瞬間、弥生は持っていた花束を床に落とした。二人は、そのまましばらく黙っていた。今まで、自分達の会話に集中していて聞こえていなかった、病院内のアナウンスや、外の子供達の声、車の音、廊下からの話し声が急に聞こえ出した。耳の中に入ってくるというより、頭に響くような感じで聞こえた。利生はなんだか夢の中にいる気分で、頭がぼーっとするばかりだった。
「分かった」
弥生のその一言が、沈黙を破った。そして、弥生はゆっくりと病室を出て行った。
『ランランララランランラン・・・』
実母の歌声が頭に響いた。利生は、そのまましばらく背中を丸めて、ベットに座ったままでいた。ベットのクリーム色のカーテンが、窓から入り込む秋風でゆらゆら揺れていた。
利生は、そのままとぼとぼ歩いてアパートに帰った。家に着いて、テレビを付け、ベットに寝転びぼーっとしていた。弥生と別れた、という実感が、なんとなく湧かなかった。だが、テレビの内容は全く頭に入っていなかった。ずっと、実母の歌声が、頭に響いていた。
何時間たったか分からないが、インターンホーンが鳴った。利生はゆっくりと体を起こし、玄関を開けた。外は、既に夕日も落ちて、薄暗かった。そこには百合子が立っていた。重そうなスーパーの袋を両手に抱えていた。
「よかった、帰ってたのね。会計済ませて病室行ったら、りつくんいないから驚いちゃった。ほら、お昼までは病院いるって言ってたじゃない?」
「あ、ごめん」
利生は、そう言いながら時計を見た。夕方6時前だった。
「何もないでしょ。買い物してきたから冷蔵庫に入れていいかしら」
百合子はそう言って部屋に入った。
「百合子さん、病院代払うよ。幾ら?」
利生が財布を取りに行った。
「いいのよ、アルバイト代、そんなにないでしょ」
百合子は、笑顔で冷蔵庫に食品を入れていた。
「いいよ、足りないかも知んないけど、これ」
利生が1万円札を差し出した。
「いいのよ、頼って頂戴、私パートもしてるし、大丈夫よ」
「いいって・・・」
利生は無理やりに、百合子の近くに1万円札を置いた。
「親父待ってるでしょ、帰った方がいいんじゃない?俺、平気だから、ありがとう」
利生は、そう言うと、ベットに座ってテレビに目をやった。利生は、早く一人になりたい気分だった。百合子は1万円札を握り締めて、キッチンの前に立っていた。
「病み上がりだから、きちんと食べて。冷蔵庫に色々入れて置いたから」
そう言って、百合子は靴を履いた。玄関の扉を開け、外に一歩出たところで、百合子は振り返った。
「頼っていいのよ、家族なんだから」
百合子は玄関のドアをそーっと閉めて、帰って行った。利生は、玄関の鍵を閉めに行った。キッチンに、利生の渡した1万円札が置いてあった。利生はベットに戻って寝転んだ。テレビでは、若手芸人が絶叫マシーンに乗って、大きな悲鳴を上げていた。
それを見て、利生は、弥生と遊園地に行った時の事を、思い出していた。ジェットコースターに、無邪気に喜ぶ、弥生の姿が頭に浮かんだ。
『どんなポーズでいく?』
弥生は、嬉しそうにそう言った。
コースターに乗った時の、明らかに、二人とも変な顔をしている写真を、弥生は大切そうにバックにしまっていた。
『楽しかったから買っちゃった』
照れくさそうにそう言った。
遊園地の帰り、綺麗な夜景の前で、キスをねだった時の弥生の色っぽい顔、その後、手をつないで歩いた時の心地よさ、すべて鮮明に思い出していた。そんな事を考えていると、弥生と過ごした日々が、走馬灯のように頭の中を駆け抜けた。最初は単なる遊びのつもりだった。ゴミ置き場でラフな格好で会った綺麗な女性。今から思い返すと、ゴミの処理に説教をする顔も、可愛かった。AVを辞めてくれて、携帯を壊した時は、内心嬉しかった。弥生の部屋の甘い香り、利生の胸の中で眠る、弥生の息遣い、鼓動。ベランダのハーブを二人で摘んだり、ただ寄り添ってDVDを見たり、一緒に入浴して、語り合って、何時間もバスルームで過ごした。散歩に行った公園で、離れたくなくて、いつまでも弥生を抱きしめていた。競馬場で智史と3人で思いっきり盛り上がった時、興奮していた弥生の顔、好きな馬の話や、利生の将来の夢を、夢中で聞いて、笑顔で共感してくれた。二人で過ごしていた時は、弥生がAV女優だなんて、何も関係なかった。弥生は、普通の20代の女の子で、そして、利生にとって、初めての最愛の人だった。
『好きだよ、利生』
弥生がそう言った時の、はにかんだ顔と、甘えた声が、頭に浮かんだ。利生は、布団カバーに顔を埋めた。やっぱり、別れたくなかった。だが、後悔した所で遅かった。決断をしたのは、結局は自分だし、仮に弥生の所へ行って、よりを戻せたとしても、弥生がAV女優であると言う事で、再び悩む事になる。利生は、行き場のない悲しみを、どこにぶつける事もできず、ただただ、涙を流していた。
翌日、利生は、重い体を起こして学校に行った。病欠の届けを出さないと、今期の単位は絶望的だった為、仕方がなかった。学生課に行って、手続きを済ませると、いつものベンチでタバコを吸っていた。ここで、弥生にいつも電話していた。携帯電話を手に取って、ぼーっと見つめていた。もう、二度と弥生に会う事はないのだろうか、テレビに出るようになったら、テレビで弥生を見るのだろうか、頭に浮かぶのは弥生の事ばかりだった。
別れても、別れなくても、結局、弥生の事考えてるじゃん・・・
利生はそんな風に思って、切なくなった。時間はまだ昼前だった。弥生がいる時は、1日あっても足りないと感じた時間が、今は、無駄なような気がした。
「利生」
呼び声の先を見ると、真美が歩いて来ていた。真美は利生の前に立ち、笑顔で話してきた。
「来てたんだね。お昼食べた?一緒に学食行かない?」
「いいや、もう、俺帰るし」
「じゃぁ、一緒に帰ろう?私今日、授業が、もうなくて暇なんだ」
真美はニコニコしていた。
「真美、何度も言うけどさ、もう、遊べないよ」
利生はそう言って、タバコを消して立ち上がった。
「どうして?」
真美がそう言ってるのは聞こえたが、利生は無視して歩き出した。
「AV女優の彼女とは、もう別れたんだから、関係ないでしょ」
利生の背中に、真美の声が届いた。利生は、大きく目を見開いて振り返った。
昨日別れたばかりで、智史でさえ知らないのに、なんで真美が知ってるんだ?
しかも、AV女優って事まで・・・
利生は真美の方へ、勢い良く戻り、大きな声で詰め寄った。
「なんでお前、そんな事知ってるんだ?」
利生の勢いに圧倒された感じで、真美は気まずそうにした。
「さ・・智史君から聞いたの」
「智史はまだ知らない、お前がなんで知ってるんだよ」
「し・・知らないー、噂で聞いたの」
真美はそう言うと、焦るようにその場を去ろうとした。
「そんな噂、あるわけねぇだろ」
そう言って利生は、真美の腕を強く掴んだ。
「痛い、放して・・・」
真美が、腕を大きく振って、利生の手を振りはらおうとしていた。そんなやり取りをしているうち、真美のバッグが地面に落ち、バックの中身が、地面に散乱した。真美が、慌てて荷物をかき集めていた。利生が地面の荷物を見ると、公共料金か何かの領収書らしき紙が目に入った。良く見ると、使用者の欄に、弥生の名前が入っていた。利生はそれを拾って、間近でもう一度良く見た。それは、弥生の自宅電話料金の、引き落とし領収書だった。
『家電の領収書がないの、昨日ポストに入ってた気がしたんだけど』
利生は、弥生が、そんなような事を言っていたのを、思い出した。真美は、利生が領収書を拾ったのに気付いて、焦った表情を見せた。
「お前、何した?弥生に何した?」
利生は怒りを抑えきれず、真美の腕を強く掴み、大きな声を出した。
「何したんだよ!」
広いキャンパスにいる学生達が、利生の声に一斉に振り向いた。真美を睨みつける利生の頬に、冷たい秋風が通った。
恋学 第十一話を読む