利生は弥生の言葉に耳を疑った。
『ちゃんと事務所の人と話してくる』って、さっきまでそう言ってたのに・・・
そんな事を考えた後すぐに、智史の家で見た弥生のDVDの映像が頭に浮かんだ。弥生は再び、あのような淫らな姿を日本中の男達に見せる事になる。自分以外の男にその小さな体をさらけ出し、いたぶられる。弥生の体を舐めまわすAV男優の気持ちの悪い顔が、その鋭い目が、利生の脳みそによみがえった。
「嫌だ・・・俺、嫌だよ・・・」
虫の鳴き声のような小さな声が自然と出た。静まり返った玄関ロビーに、外からは激しさを増した雨音が響いていた。弥生は悲しそうな表情をして、利生の目を見ずにずっと下を向いていた。
「俺が働くよ!俺、学校辞める!弥生の今の収入には届かないかも知れないけど、俺、弥生の分も稼ぐよ」
利生が沈黙を破るように大きな声でそう言い、弥生の手首を強く掴んだ。弥生は悲しそうな目のまま、利生をゆっくりと見た。
「痛いよ、利生」
弥生が、利生の手を自分の手から放そうとした。その瞬間、利生は弥生を自分の胸の中に引っ張り寄せた。利生はそのまま弥生をぎゅっと抱きしめた。もし放したら、二度と弥生は戻って来ないような、そんな不安な気持ちを埋めるかのように。そして、弥生は自分だけのものだと確かめるかのように。
「利生、私、AVなんてやりたくなかった。最初の撮影の日、終わって家に帰った後、ずっと泣いてた。でも、慣れっていうか、そういうのってあるんだよね。お金が沢山入って、札束目の前にして、日を追うごとに平気になっちゃった。」
利生はその言葉を聞いて、腕の力を弱めた。しかし、そのまま弥生の背中の後ろに手を回したまま、静かに弥生の肩に顔を埋めていた。
「でもね、心のどこかで思ってた。誰かが私をこんな生活から連れ去ってくれないかな?って。そんな王子様いるわけないのに・・・利生に会ってから、利生がその王子様だと思ったの。こんなに楽しかったの初めて」
「だったら・・・」
利生はそう言いながら、弥生の顔を見た。弥生は少し笑って首を振った。
「贅沢なのかな?私。1日中家にいて、利生の帰りを待って、最初は楽しかったのに、最近は少し退屈に感じてたの。利生が私に飽きちゃったら、私には何も残らないでしょ?この先どうするのかな?って不安になっちゃった」
「飽きないよ、そんなの保障ないって言われればそれまでだけど、俺、飽きねぇよ」
「利生には、夢があるでしょ?開発するんでしょ?窓のテレビ作るんでしょ?学校やめるなんてだめだよ。同じように、私にもやりたい事はあるの」
弥生はそう言いながら、利生から離れた。
「私は利生が好き。利生が私を嫌になるまで一緒にいたい。でも、もっと有名になってテレビ出れたりするなら、それもやりたい。贅沢かもしれないけど、これが私の今の本音なの」
利生は地面をじっと見つめて、両手を握り締めて棒立ちしていた。
「利生、利生が決めて。ずるいかもしれないけど、私は仕事も利生も両方欲しいから」
「俺が・・・俺が耐えられないって言ったら、別れるってこと?」
「少し考えて連絡ちょうだい」
弥生はそう言うと、利生に最後まで視線を残しながら、オートロックの自動ドアを通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターと玄関ホールにある薄い自動ドアのガラスが、二人の距離を遠ざけているかのように感じた。弥生はエレベーターが閉まる直前に軽く手を振った。利生は、それを一歩も動かずにじっと見ていた。そして弥生が去ってからも、ずっとその場に立っていた。
なんでこんな事になったんだろう。今日の朝は普通だったのに、むしろさっきまで普通だったのに。楽しかったのに。テレビ作る事なんて、どうでもいい。今の俺にはそんな事どうだっていいんだ。
弥生に出会ったこの何ヶ月かで、そんな夢の事すっかり忘れてた。楽しすぎて忘れてたよ。
雨が激しく降る中、利生はとぼとぼと歩いた。頭の中が真っ白で何も考えられなかった。駅を通りこし、私鉄で3駅分の自分の家までただただ歩いていた。
家に着いて、部屋に入ると、鍵も閉めずに、濡れた服のまま利生は床に寝転んだ。頭の中は弥生の事ばかりだった。弥生が誰かに抱かれているのを、認める事などできる訳がなかった。しかし、それは弥生と別れなければいけない、という現実であった。
「好きだって言ったじゃん。弥生の俺への気持ちってそんなもんだったのかな・・・」
利生の独り言が、真っ暗な気温の低い部屋に響いた。利生はその言葉を発した後、すぐに一瞬身震いした。自分が今言った台詞が、何人かの遊び相手の女の子の口から聞いた事のある台詞だ、という事に気付いたからだ。泣きながら自分の感情をぶつけてきた女の子達の気持ちが、分かったような気がした。
「は・・・」
利生は、情けない表情を浮かべて笑った。そして、這い蹲って冷蔵庫の前に行き、缶ビールを取り出して、冷蔵庫を開けたままビールを飲んだ。
「俺ってあの子達に、真剣に愛されてたんだ?・・・やっぱ俺って最低男だな」
利生はそう呟き、飲み干した缶ビールを片手でぐしゃっと潰した。そして、新たな缶ビールを開けた。弥生が利生を想っていた気持ちに、偽りない事は利生自身分かっていた。だからこそ、別れる事を考える事が辛かった。嫌いになったとか、遊びだったとか、そんな理由があればよかったのに、とか考えていた。そのまま利生は、冷蔵庫にストックしてあった缶ビールをすべて飲み干した。意識が朦朧とする中、ドアの開いた冷蔵庫の前に酔って倒れこんだ。
「恋愛って体力使うな、精神力か?あはは・・・」
利生はそう呟いて、酔いつぶれたまま寝てしまった。
『ランランララランランラン・・・』
寂しい時、嬉しかった時、夢に決まって出てくるのは実母の歌声・・・
利生は涙を流しながら寝ていた。そして、自分の咳で目を覚ました。窓の外は、昨日の激しい雨を忘れるほどの晴天で、カーテンから光が漏れていた。利生は体を起こそうとしたが、また床に崩れ落ちた。頭が岩になったのかと思うほど重たく、体中か関節痛でとても痛かった。利生は這い蹲ってベットにもぐりこんだ。咳が止まることなく出続けた。服はまだかなり湿っていたが、着替えるために起き上がる事さえできなかった。
「風引いたな・・・」
その時、利生のポケットの中で携帯が鳴った。出てみると智史だった。
「利生、寝てただろ?今掲示板見たんだけど研究室決まったぞ!第一希望通った!俺ら二人とも!うぃー、同じ研究室だぜぃ!」
元気のいい智史の声が、利生の重たい頭に嫌という程響いた。
「利生?どした?聞いてる?」
「智史、死にそう、てか、死ぬわこれ・・・」
ゴホゴホと咳をしながら、小さな声で利生が言った。
「なぁぬぅー?ってふざけてる雰囲気じゃねぇな。頭に貼る冷たいの買ってくわ!」
智史はそう言って電話を切った。利生は携帯を放り投げると、布団に包まった。寒くて寒くて仕方がなかった。もう一枚毛布を出そうとして、立ち上がる事を試みた。なかなか立ち上がれなかったが、やっとの思いでベットから出た。毛布を取りに押入れまで2mもない所を歩こうとした、その時、利生はばったりと倒れこんだ。そのまま利生は気を失った。
気付くと、利生は病院のベットの上で寝ていた。ベット際には百合子が座っていた。百合子は、利生が6歳の時に利生の実父と結婚した。
「百合子さん?」
利生が驚いた表情をした。百合子の顔をまともに見たのは本当に久々だった。大学に入ってから3年、長期休みにもほとんど帰っていなかった。帰ったのは、成人式の日と、保険証だの免許証だの、何かの手続きだの、と事務的な書類がいる時だけだった。実家は、百合子に対して気を使うし、利生にとって居心地が悪い場所であった。
「よかった、お友達の智史君?から電話頂いた時はびっくりしたのよ。肺炎ですって」
百合子が、胸を撫で下ろして言った。
「百合子さん、ありがとう。帰っていいよ。忙しいでしょ?」
利生はそう言いながら、首を窓の方に向けた。
「大丈夫よ、夕食の支度も全部済ませてきたから」
利生は窓の外を見たままだった。
「家事はね、そんなに大変じゃないの。二人だし」
百合子がばたばたと手を振った。
「随分帰って来てないわよね。たまには帰ってくればいいのに」
百合子はニコニコして言った。百合子は22歳で利生の父と結婚した。母が亡くなってすぐに、同じ会社の事務員だった百合子と結婚した父には、周りからの冷たい批判が多かった。その時、利生の父は35歳だった。『奥さんを亡くしたばかりなのに、若い子連れてきてねぇ』と近所のおばさん連中がコソコソしていたのは、幼い利生にも分かっていた。それでも、百合子はニコニコして、そのおばさん達に挨拶していた。家庭の中でもいつもニコニコしていて、利生に怒ったことがなかった。怒るのはいつも父親で、百合子はしばらくすると、お菓子やジュースを持って宥めに来た。大きくなるにつれて、その百合子のニコニコがだんだんと好きではなくなった。いつしか血縁関係がない事は、利生と百合子の大きな壁となっていた、と同時にその事に触れた会話もタブーになっていた。
「入院ね、3日位だって。必要なもの揃えなきゃならないから、りつくんの部屋、入っていいかしら?何か欲しいものある?」
百合子は利生の事を『りつくん』と呼ぶ。『りき』と呼び捨てにできないからだろう、と利生は勝手に納得していたが、実際の所は分からない。利生はこの呼び名もあまり好きではなかった。
「百合子さん、気使わなくていいよ」
「・・・気使ってるわけじゃないわ、ただ・・・」
百合子がそう言いかけた時に、看護師が病室に入ってきた。
「橋本さーん、保険証はお持ちですか?」
「あ、はい」
百合子は、財布片手に病室を出て行った。頭の重さはなくなっていた。少し元気になってすぐに弥生の事を考えた。別れる、別れないより先に、利生の頭に浮かぶ事はただ一つだった。
会いたい・・・
弥生の顔が見たい・・・
恋学 第十話を読む