独りの女が夕暮れの街で佇んでいる。夏乃という。…何となく人恋しい。誰も待つ者の居ない部屋には帰りたくない。彼女が故郷を出、会社勤めを始めて十年が過ぎようとしている。…いつもの勤め帰りの乗り換え駅を降りて、暫く街中を漫ろ歩きしたのち、ショッピング広場の隅のベンチの傍らで佇んでいる。
初夏の落日は長く、茜色に染まった街並みは、なかなか暗くなる気配を見せようとしない。店々の灯りは逆に夏乃の孤独感、寂々の情を際立たせる。…帰宅途中のサラリーマンやOL、高校生の群れは誰も夏乃を気に留める事も無く、行き交う。塾通いの子供らの姿も見られた。
いつまで此所に居るわけにもゆかないが、さりとていっかな帰る気にもならず、人々の姿をぼんやりと見ている夏乃。…なぁんで、こんな所に独りで居るんだろ…。
その時、彼女の前を一人の青年がゆっくりと横切ってゆくのに気が付いた。…何処かで逢った様な気がする。顔付きをチラッと目にしただけだが、一瞬、何故か懐かしい気がして、思わず後を尾けて歩き出した。
…えーと、誰だろう…誰だっけ…?
確かに見覚えが有る姿だ。自分と同じ年頃か。やや長身の細っそりした身体付き、色白の繊細な顔立ち。…青年の長い影法師は前をゆったりと歩いてゆく。その後ろ7〜8mを、夏乃が尾ける。
やがて青年は繁華街の裏通りに足を踏み入れた。個人経営の商店が多いこの辺りには、地元の主婦達の買い物姿が目立つ。暫く行くと、道の両側に幾つかの小さなビルが並んでいた。
青年は、ふと立ち止まる。看板を見つめているのだ。映画館である。…昔、何処の街中にも在った様な、小さな映画館だ。
…こんな所に、まだ古臭い映画館が残っていたなんて…。
夏乃は意外に思った。この辺りは歩いた事も無い。商店にしても建物、家々にしても懐かしさ、郷愁を覚えさせる佇まいを残している。夏乃自身、こんな光景を稚い頃に見た様な記憶が有る。
青年はとうとう映画館の窓口で一枚のチケットを買い求め、中へと入ってゆく。夏乃はそれを認め、自分も窓口でチケットを求めた。『寂しがり屋の友達』という、名も知らぬ監督の作品である。チカチカと蛍光燈の点滅する待合室。…この映画館には見覚えが有る。幼稚園の頃に父親に連れていって貰った映画館によく似ていた…。
青年は薄暗い脇の廊下から客席へと入ったらしい。夏乃も恐る恐る重たい扉を開け、中を覗く。…居ない。青年の姿が何処にも見当たらない。…中年の勤め帰りの男、或いは身の置き処に困っている様な年老いた男など数人が居るのみで、青年の姿は見えない。
…どうしよう。帰ろっかなぁ…。
しかし女独り入ったばかりの映画館を、すぐにのこのこ出てゆくのも何だかバツが悪い。どうせ某しかの金を払ったのだ。観てゆく事にする。中央の、やや前寄りの席に腰掛けてスクリーンと向き合った。
…女の子が主人公らしい。その女の子は寂し気な様子だ。父親は毎日、会社勤めで帰りが遅い。共働きで母親も会社勤め。女の子が学校から帰るまでには家に居る筈の母なのだが、仕事の都合の為か、なかなか時間通りには帰宅出来ない。だから女の子は鍵を持ち、誰も居ない家の錠をガチャリと開ける。独りきり、小さな声で“ただいま…”と呟く。
女の子は薄暗い居間の板張りの床で、いつも通りにチラシ広告の裏に鉛筆で絵を描き始める。描いているのも、寂しげな女の子の絵である。
「なーつーのーちゃん。」
呼ばれて女の子は縁側に振り向いた。今日も来てくれた。近所の何処かの、ちょっと変わった雰囲気の、色白の男の子。名前は『宮城ナントカ』というらしいが、ナントカ…が子供には何とも覚えられない。
女の子が独りで居る時に、よく遊びに来る。…宮城君は無口。一緒に居ても、特に何をお話しするでも無い。ただ一緒に時間を過ごして、暫くして“じゃあね。”と帰ってゆく。
あれっ……。あの女の子って、私じゃない?…そうそう、あの男の子、宮城君って言ったよね。思い出した…。
映画の中では“寂しがり屋の女の子、なつのちゃん”の日々を淡々と綴ってゆく。そして独りきりのなつのちゃんを、少し離れた所から見つめている宮城君。…で、宮城君はなつのちゃんに声を掛け、一緒に遊ぶ。
時間が何年も過ぎて、なつのちゃんは夏乃…と呼ばれる様に成り、中学生に。成長した夏乃は、初恋をする。一方的な片想い。好きな男子に話し掛けようとして、出来ない。そんな夏乃を、離れて見つめる男子が一人。
…あぁ、あの人…野村くん!?
スクリーンを見て、客席の夏乃は思わず呟いた。“野村君”は同じクラスの男子だったが、物静かでえらく無口。だから、会話といえば夏乃は極く偶に彼と挨拶を交わしたくらいのものだった。しかし何とも不思議な雰囲気を持った少年。あまりに静謐な印象なので、記憶に残っている。
…野村君、私の事を見ていてくれたのかなぁ…。
地方の専門学校で人間関係に悩み、マックで独りハンバーガーを囓るでも無く、コーヒーを啜る夏乃。その夏乃を、離れて見守っている男性。…名前さえウロ覚えだが、確かにあの男性は校内で度々、顔を合わせていた。会釈くらいはしていた憶えがある。…やっぱり、色白で物静か、不思議な雰囲気の……。
そうか、やっと思い出してきたぞ。宮城君、野村君、そして名も知らぬ男性。…三十も過ぎて、やっと気が付いた。
微妙に顔の造りは違う様だが、もしかしたらホントはいずれも同一人物だったのでは無かろうか?…私が孤独の直中に居る時、静かに傍らにやってきて、私を見て…良く解釈すれば見守っている。
一体、何処の誰なのかな?…私が独り者で居る限り、この先々も私の前に現れ、私を見続けるのだろうか。
…映画の中では、さっきまで夕暮れのショッピング広場で佇んでいた夏乃自身の姿が映し出されている。その前を、一人の青年が通り掛かる。…ハッとした様にその後を尾けて歩き出す夏乃。やがてスクリーンの中の青年は、古ぼけた映画館の前に立ち止まり、窓口で一枚のチケットを求め、中に入る。後から夏乃も映画館に入ってゆく。…だが、客席に青年の姿は見えない。仕方無く夏乃は独り、映画を観ている。そんな彼女を……後ろの席で見つめている青年の姿が有った。
…映画を観ている夏乃、その後ろ姿を見つめている青年…。
映画の中の夏乃と、今、映画を観ている夏乃自身の姿が一致した。
…夏乃は恐る恐る、ゆっくりと後ろを振り向いてみた……。