教会のチャペルコンサートで、テモテへの手紙第一1:12〜17からお話しした。
17節には、「どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」
この中の、「唯一の神に、…栄えが…ありますように」が、ラテン語にすると「ソリ・デオ・グロリア」。「神にのみ栄光がありますように」とも訳すことができる。バッハが、自分の楽譜の最後に書いたS・D・Gは、その頭文字を並べたもの。
あれほどの天才が、なぜ自分の栄誉を求めず、「神にのみ栄光が」なのか。
一つには、自分の与えられている務めが神の御旨と御力とによって成り立っていることを知っていたから。同じように、宗教的「天才」であったパウロ先生が言っている。「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」
もう一つには、自分が神の前にあっては栄誉に値しない、むしろ滅ぶべき「罪人の頭である」という、深い霊的自己理解を持っていたから。パウロ先生は再び言っている。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
最後に、そのような「罪人のかしらである」自分自身をも、神は愛し、永遠のいのちに与らせてくださったことを知っていたから。「しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」
パウロもバッハも、自らの罪と弱さにおいて神の愛を受け止めていた。彼らの深い「罪意識(恥意識ではない)」はそのまま、神の愛の深さの自覚でもあった。どうしてその愛を受けていながら、自分の栄誉を求めることがあるだろうか。「神にのみ栄光あれ」と叫ばないでいられようか。
神の愛は、赦しの愛。罪人を愛する愛。自らの罪の痛みの中で初めて受け止められる愛。その意味での愛が見失われた今の時代。軽々しい愛の蔓延した時代。「手軽」な「癒し」(エレミヤ6,8章)に満ちた時代。
「ソリ・デオ・グロリア!」ここに、そのような時代から贖われた者たちの叫びがある。

0