「イサクは自分の妻のために主に祈願した。彼女が不妊の女であったからである。主は彼の祈りに答えられた。それで彼の妻リベカはみごもった。子どもたちが彼女の腹の中でぶつかり合うようになったとき、彼女は、『こんなことでは、いったいどうなるのでしょう。私は』と言った。そして主のみこころを求めに行った。」(創世記25:21〜22)
夫のイサクは、自分ではどうしようもない事態に直面して主に祈り、
妻のリベカは、自分の理解を超えた事態に直面して主の御心を求めに行く。
言うまでもなく、「昔は祈ることしか手段がなかったのだ、今なら代理母や出産前検診があるだろう」ということではない。ヒューマニスティックな観点からの「祈り」ではない。
彼らは、この宇宙に対する神の主権的なご支配を知っている。すべての力と知恵とがこの方にあり、この方から発していることを知っているのだ。彼らにとっての祈りは、この神との交わりをいただく手段に他ならない。
その神は、永遠の、いつまでも変わることのない神。だから、この方は私たちの力と知恵でもある。私たちもまた、キリストの贖いの血により、祈りを通して、この神に近づくことができる。
神を知っている昔の人たち。神を知り尽くしたように思い、というよりは、知り尽くし得るような「神」という偶像を造って、それを拝んだり否定したりしている現代人たち。現代人の心の貧困の根っこがここにある。

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