「むしろだまされていなさい」
あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。それなのに、この世のことで争いが起こると、教会のうちでは無視される人たちを裁判官に選ぶのですか。私はあなたがたをはずかしめるためにこう言っているのです。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することのできるような賢い者が、ひとりもいないのですか。それで、兄弟は兄弟を告訴し、しかもそれを不信者の前でするのですか。そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。第一コリント6:1〜11
コリント教会は分裂とか不品行など、問題の多い教会でしたが、まだ他にもありました。それは、教会内の争いを世の法廷に訴え出たということです。本来なら、教会内で処理すべきなのでありますが、訴訟事件にまで発展させてしまったのです。そうするといくつかの問題が起こります。まず、聖徒間の交わりが傷つけられます。裁判というものはどうしても客観性が問われますので、問題をもう一度掘り返さなくてはなりません。自分は正しくて、相手が悪いんだというふうにもって行くうちに、心がだんだんすさんできます。人間は本来、人をさばくために造られてはいません。愛するために造られているのですから、精神的にも肉体的にもおかしくなります。
イエス様はおっしゃいました。マルコ3:24-26「もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。」サタンですら、内輪もめをしたら滅びるというのです。それはサタン自身よりも怖いということです。 イエス様は山上の説教で、「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい」(マタイ5:40)と教えました。使徒パウロは、6:7で「そもそも、訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろだまされていないのですか」とまで言っています。つまり、訴え出るよりも、だまってだまされ、被害を受けよというわけです。私たちが何よりも避けるべきことは、内輪で争い、そのことを外の人たちに訴え出ることです。
あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」ローマ12:18、19 「敗北」辞書によると敗北、失敗、失態とあります。宗教改革者ジャン・カルバンはこの語は元来、無気力さ、心の弱さのことで、たやすくくずおれたり、腹を立てたりして何ひとつがまんの出来ないことだと言っています。コリント人が互いに訴え合っていたのは、彼らが我慢強く堪え忍ぶことが出来なかった。はずかしめを堪え忍び自分の感情にうちかつことが出来ない人はその不忍耐の故に罪を犯す者だと語ります。
8節 ところが教会の現実は自ら不正を行いだまし取っている。不正から身を守るための訴訟ではなく、不正を行いだまし取るための訴訟だ。パウロの主張は「不正を受けても甘んじようではないか。だまし取られても与えようではないか。もしかりに争いになったとしても教会内部で解決しようではないか」というのです。
9,10節 正しくないものは神の国を受け継ぐことは出来ない。つまり天国へ行けないと言うのです。
厳しく、悔しいメッセージを私たちはどう受け取らなければならないのでしょうか。
しかしそこには、もっとも理不尽な死に向かって、罵倒の中その身を甘んじて行かれた方が私たちの為に最後の滅びまで堕ちられたのです。告訴するものの中で、むしろだまされ、十字架の死にまでいかれた主イエスキリストの死が私たちの前におかれたのです。この出来事によって、私たちは裁きの日に告訴するものから全く無実のものとして立てられていくのです。
人がもし、不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに、悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです。罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 第一ペテロ2:19〜24

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