万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 ペテロT 4章7〜11節
全てのものは主から与えられています。いのちもイエス様のいのちと引き換えに頂いています。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリントT 6:20)私たちの全ては主のものだから、主の喜ばれることを求めていかなければいけません。しかし、それは義務というよりは、感謝のあらわれです。誰かにものすごく親切にされたり、大変な状況にある時に助けてもらったりしたら、その相手に好意をもって恩返しがしたいとか、何かの役に立ちたいと思うのが普通だと思います。ただイエス様の十字架の愛は想像を絶する大きさ故に、どれほどのことをしてもらったのか人間の理解では追いつきません。その愛の大きさを知ることができるように聖霊様に絶えず祈り求めていくしかありません。「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8:35) この御言葉はわたしにとっては耳が痛い御言葉の一つです。今の時代に福音のためにいのちの危険が伴うようなことはあまりないでしょうが、自分のことよりも、主を第一として、他人の利益をこころがけることを実践するのはわたしにとっては難しいです。いのちに至る唯一の道を周りの人に伝えないということは、その人を見殺しにするようなものかもしれませんが、自分に対する周囲の目という些細なことをおそれて、熱心に伝えることができていません。主のみこころ、他人の利益よりも自分が優先してしまっています。自分を捨てる愛をイエス様は既に示してくださっています。その愛の深さをもっともっと知ることができるよう祈り求めていくうちに、隣人を自分と同じように愛することができるようになり、そのいのちの救いを今よりずっと願い求めるようになると思います。
なかなか周りの人に福音を伝えていくことができていない理由の一つとして切羽詰った感じをもっていないというのもあるかもしれません。今日言うことができなくても、また今度の機会にと思っているうちにどんどん機会は失われていきます。でも実際のところ次の機会があるかどうかはわかりません。「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」(ペテロU 3:9,10) 今のこの時は主が忍耐をもってつくっている貴重な時間といえると思います。時間を無駄にできないことを覚えつつ、終わりの時の前に一人でも多くの人が救われるため、機会を逃さずにイエス様の十字架を伝えていきたいです。主のご計画に用いられることを喜びながら、主に力を頂いて主に仕えるものでありたいと思います。

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