神と一つとなる
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
第一ヨハネ1:3〜7
「神は光である」とは、ヨハネの手紙もヨハネによる福音書も、ひとしく語る処です。しかしそれは聖書全体を通じて語られていることでもあります。光なる神が、世界創造を「光あれ」との御言葉から始められたことは、良く知られています(創世記1章3節)。また神は人間の創造において、その御業を完成されたのですから、神の御手による創造には、世界と殊に私たち人間を光の中に置き、光の中を歩くように招く意図が込められています。ですからもし私たちが「闇の中を歩むなら」、それは神の創造の意図から外れることになり、そうなっては「もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。」(6節)と言われます。 しかも実際には、私たちは生きてゆく限り、様々な闇を味わうのも事実です。そこで、「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」(5節)を、神は闇と関係ないと読むなら、それはとんでもない誤読です。何故なら、神は光を創造されて、「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」(創世記1章4、5節)のです。闇を御自分に関係ないこととはなさらずに、「夜」と名付けられたということは、闇をも完全に御自分の恵みの支配下に置かれたことを意味しているからです。むしろ、そこにこそ私たちへの慰めと希望の源泉があるからです。ヨハネの福音書は、光としての神の「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」1:4〜5と語ります。ということはその逆に、光の側では闇を理解し尽くして、完全に御自分の支配の御手の中に置かれた訳です。それが「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。」の意味です。使徒パウロは、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。」第一コリント2:14〜15と語ります。ですから例え、闇に取り囲まれて私たちが「お先真っ暗」な状態で苦しむとしても、私たちは「闇が全くない」神によって支えられていて、やがて私たちも闇に打ち勝つ希望をもって耐え、闇を理解し尽くしている神に委ねて待つことが出来るように なるわけです。
光は、「交わり」を開きます。それは先ず「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であり、又「互いに交わりを持」つことです。私たちは先ず初めに「光からの光」としての御子を通して神との交わりに入れられ、それによって兄弟姉妹の交わりを持つのです。神は見えず、信仰の目で見て仰ぐお方である一方、人間はこの目に見えますから、ついつい私たちは交わりと言えば、兄弟姉妹の交わりを先に考え勝ちです。そして教会でも、兄弟姉妹の交わりが不十分であると嘆き易いのです。しかし、その時神による 御子との交わりの方が、もっと不十分であることを見逃しています。この点のはっきりした徴候は、神を度外視して何でも出来ると考え勝ちな現代人が、神との交わりなど思っても見ない状態の現状において、人間関係がどういう場所でも怪しくなっていることに、顕著に現れています。「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。そしてその次に「私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7節)が来ます。この順序を守ることが大切です。力ある交わりは、何よりも信仰の事柄であって実感ではないのです。実感に頼る心は、必ず内向きな閉鎖性を抜け出せません。信仰の「交わり」に身を置くとき、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」とあります。ここでもこの順序が大切です。罪からきよめられて、交わりが開けるのではありません。教会の外では、人々は信仰者をきよらかで純粋な人と考えておられます。そして教会に来るには、余程自らをきよくする必要があると思っておられるようです。それでいて、何かの折に教会に立ち寄られると、そこでは「罪、罪」という言葉がしきりに言われる、自分はそんなに自分を悪者とは考えないのに、と仰います。私たちは出来るかぎりそういう誤解を解いていただくように努めたいと思います。そういう実際の生き方をしていたいと思います。そのことを主にひたすら祈って励みたいのです。確かに「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。」(8 節)と言われ、又「もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。」(10節)とさえ言われています。これを割り引く訳にはいきません。しかし、罪の赦しが交わりに先立つのではなく「神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(7節)と言われているのです。主イエスの交わり、つまり教会の交わりに加えられ、福音の恵みによって罪を知り、私たちに悔い改めが起こるのです。キリストの恵みに触れなければ、私たちは本当の意味での深刻な罪の限りない邪悪さ(ローマの信徒への手紙7章13節参照) を知らないからです。「あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。・・・けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」 (エペソ5章8、13〜14節)。

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