苦しみの杯
また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」そして、賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。 マタイ26:26〜41 ゲッセマネとは「油しぼり」と言う意味があり、オリーブの栽培が盛んに行われていた土地です。その一角で主イェスは神の怒りの杯(十字架刑)という 究極の苦い杯を避けることが許されるならと、さながら油をしぼり取るように苦しみ呻きながら、祈りをささげられました。同時に十字架の向こうに見えるもっと恐ろしい地獄を思い、そのような所に世界の誰をも陥れてはならないと、高きにいます「神の子」としてではなく、どろどろとした罪人の住む世界に身を置く「人の子」であり続けて、結局私たち罪人が受けるべき神の審きとしての十字架を私たちに代わって受ける道を選び取ってくださいました。それ以外に私たちを 救う道がないからです。
その頃、主を愛して止まない弟子たちは何をしていたかと言うと、眠っていたのです。主は睡魔に勝てない弟子たちを叱りながら、それでも「心は熱しているが、肉体が弱いのである」と同情を寄せて下さいました。彼らは普段主イェスの直弟子と言うことで、多くの人の尊敬を集めていたことでしょう。自分たちも、よもやこの大事な時に居眠りをするとは予想もしていなかったはずです。これが弟子たちの限界でした。そしてこれが私たちの現実です。私たちがどれほど「主を愛している」と言い切ったとしても、主イェスが私たちを愛して下さる愛の大きさにはかなわないのです。そのことを思い、私たちは主の御前にもっと謙らなければなりません。
主イエスが飲み干された「杯」とは、「神の激しい怒りのぶどう酒の杯」(ヨハネの黙示録16:19)です。神は神に背く世の人々に対して激しく怒り、世を審く死の杯を注ごうとしておられます。神は聖にして義なる方ですから、世の罪、汚れを見過ごしにできません。これを一掃してしまいたいのです。しかし、同時に神の本質は愛です。愛なる神は世の罪人をご覧になって、憐れみの御心を起こされました。神は世の罪を審いてぬぐい去り、しかも罪人を救うという、一見相矛盾することを成し遂げて下さいました。それが十字架です。神は愛する独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、一切の罪を彼に負わせ、その命を罪の代償として私たちを神の怒りから免れさせて下さいました。ここに愛があります。

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