「備えの時」
主の声に聞き従っていくこと、主の行かれるところについていくことが私たちにいつもチャレンジとしてあります。なぜチャレンジとしてあるのか、それはその度にいつも手放すことが問われるからです。その手放すということは、しばしば私たちの手から嫌々でも手放して捧げたらいい、という理解がありますが、主が本当に求めているのは、自ら進んで捧げる捧げものです。恵みを本当に受けるなら、この手にあるものはむしろ邪魔になってくるでしょう。祝福を受ける信仰の備えができているでしょうか。本当に神様からの祝福を受けたいと願うでしょうか。私たちのために命を捨ててくださった主の愛に応えていきたいと願っていますか?そうであるなら、自らのものを捨てなければ受けられません。手に握っているものを手放すことが最高の備えです。この手にすべてを満たしてくださるということを信じる信仰がなければ、受けても意味がありません。神様は祝福しようとしてくださっています。それを祝福として受ける目が開かれていなければ、すべて自分の栄光になってしまったりするので、かえって受けなかった方が良い、ということにもなり得るのです。私たちが手に握るものを捨てるときにこそ、本当に祈り、仕えていくものになるのです。主の側に立つのです。主の十字架を負うのです。
神学生時代の証ですが、男女の関わり方、つきあい方、結婚について、性について、非常にデリケートな問題なので神学生なりに慎重にするところがあります。特に付き合いをしている男女には時には非難の声、そして結婚をすることに関してもそれはどうなのだ、とか、準備が不足している、二人の祈りが不足している、と、様々な声が外野から飛んでくる訳です。それに自分は疑問を感じました。クリスチャンが得意とする「机上の空論的批判」にです。それぞれが学んだことがあるのでしょう。それぞれの経験があるのでしょう。
しかしもし、本当にその二人のことを思うのであれば、そんな言葉は捨てて、祈りに向かうのではないのでしょうか。本当に祝されるように、神の御心がなるように、祈る側へと立つんじゃないでしょうか。いつも私たちはどちらに立つか問われます。主が立たれた場所に立つとき、無言で十字架に向き合い、進まれたところに立つとき、もはや私が握る言葉、私が握る正義、私が握る力はありません。両手は主に上げられます。人の経験から、人の配慮によって多くの言葉を発し、いつしか主が使わされた「小さいもの」に仕えることができず、みすごしてしまったり、主の業を妨げるようなことがあってはなりません。机上の空論はもう捨てて、私の握るすべてのものを人の解決に任せず、主にまかせ、本当に主に期待し、主の側に立っていくとき、そこに「わたしにも主の十字架を負わせてください」と仕えるものへと変えられていくのです。

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